フクフク丸のあずましいblog
あずましい=快適、すごしやすい  アナタの「心の元気」を引き出す   「漢方薬」に私はなりたい。
08 « 2017 / 09 » 10
 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30.
--/--/-- --  --:--:--» E d i t
 » スポンサーサイト 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 *  TB: --  *  CM: --

top △ 
2012/04/15 Sun  08:30:38» E d i t
 » かくれんぼ その2 
 (前回からのつづき)

 心の声に耳を澄ましてみる。
 
 自分の目の前で自分の子供たちが天衣無縫にはしゃぎ回っているのに誘われるように、自分の内側を力強く打ち叩きながら彼らに呼応するように「もういいよ」「もういいよ」という声が今の自分に近づいて来ているような感覚になる。




 
 自意識に目覚める前、私の中の少年は誰かに×をつけられることを極端に恐れることは無かっただろうと思う。

 いつも親に叱られるまで勉強もせずに遊び回って、散らかし放題散らかして、マンガの主人公に憧れて、自分もいつかそうなれたら良いなと憧れながら、別に塾に行くでもなく習い事をするでもスポーツをするでもなく、ただひたすら友人たちと新しい遊びを作り出したり、テレビの真似ごとしたり、山や海に行って新しい発見をしたりしていた。
 そのことを誰に伝えるでもなく、また、伝える手段にも言葉にも乏しく、ただただ自分たちの中でそれらの経験は輝きを増して行った。


 競争意識が植え付けられた頃から、誰かにつけられる×に必要以上に束縛されてしまったような気がする。輝いていた少年の宝物たちよりも、教科書に書いてあることの方が優位であり、テストでもらう○の方が大切であり、大人になって行くために必要であると、きっと、そう刷り込まれていた。


 それを覚えた結果、誰かから○をもらえなければ競争社会では「敗者」のレッテルを貼られてしまう。そこにあるのは伸びて行くための競争だったのか、他人を蹴落とすことを覚えるための競争だったのか。

 
 中学生の頃はたくさんの○をもらった。自分たちがあの頃に見つけた宝物「経験」にいろんな名前や法則や方法がある事を「知る」ことは喜びだったし、その頃から急激に溢れ出して来て不安定に揺れまくるようないろんな「感情」の中でも○をもらうことの優越感は恐らく格別なものだった。


 やがて過剰な自意識は自分の価値判断基準を外側に置いてしまう。

 高校に入り、○をもらう優越感を覚えて来た人たちばかりが選りすぐられた環境の中で×ばかりの自分になった。誰かから○をもらうことの嬉しさよりも×をつけられる怖さにガチガチに縛られるようになっていった。自分の学習・習熟程度につけられた×がまるでこれまでの全人格を否定するかのような鋭利さで自分を覆っていた優越感を切り裂く日が来た。


  
 切り裂かれた優越感はやがてささくれだった劣等感へと変化。「大人=自分たちに○や×をつける存在=自分の価値を決めてしまう人たち」という勝手な決めつけと思い込みが生まれて来る。それに反発するでもなく、×をもらった自分は価値のない人間であるとさえ思い込むようになってしまっていた。



 もう「誰かとの比較の中にしか自分が存在しないような状況」に組み込まれてしまっていたことが今だったら良く分かる。それも同じ学校、同じ学年というごくごく狭い、世間にしてみればそこら辺の蟻の巣なみにどうでも良いような小さな社会の中での比較の中という、今思えば“そのくらい”のことでも当時は一生懸命もがいていた。


 それは「背伸び」でも「虚飾」でもない「環境」というヤツなのかも知れないけれど、間違いなく自分を束縛し、委縮させるものだった。当時はそれがすべからく悪のように思えたものだが、今ではそう思わない。

 社会なんて出てみりゃ分かるが、常に競争の渦の中だ。泳ぎ方を覚えるなり、渦を避ける方法を見つけるなり、デカイ船に乗るなり、自分で船を作るなり、とにかく自分を束縛するもの、委縮させるもので溢れかえっている。
 その競争もこっぴどいもんで競争してるか、あるいはそこから逃げ出して誰かに助けてもらってるかしかない。しかも「世間の方が悪いんだから」という言い訳のひとつもどこかで覚えて来なかった人たちなんて、×もらったら命を捨ててしまったりするほどだ。
 
 
 だから、優越感という勘違いを早い段階で切り裂かれる中でも、高校の方針として大学進学のためのカリキュラムが組まれ、お勉強マシーンという画一化・同一化を押し付けられたあの窮屈感、居場所のなさがあったからこそ、自分の居場所を探したし、窮屈感から逃れるために一生懸命だった。

 でもその当時はみんなお互いに「君よりも僕の才能の方が上だよ」って自意識過剰だから、なかなか助けを求める人もいなかったし、できない自分を認めることもできなかったけど、誰も見てないところで少しずつくらいはいろんなことを努力した。「できないのはやっていないから」なんて当たり前のことを言われて、やってみてもできないことがあると挫けたし、「努力が足りない」と言われれば「どれだけやればできるのか」という普遍的な答えを求めさえした。

 「やり続けていれば、きっとできるようになる」と言い換えれば話が通じやすかったんだろうけど、タイムリミットはいつでも「できなかった自分」を置き去りにして、置き去りにされた「できなかった自分」が倒れ込むように自分の中に折り重なって行った。

 心が動けなくなるほどに。



 いつから「かくれんぼ」始めたんだっけ?

 別に始めたくて始めたワケじゃないんだよ。
 前ばかり見てなきゃ、進めなかっただけなんだよ。



 つづく
スポンサーサイト
コメント
この記事へのコメント
コメントを投稿する
URL:
Comment:
Pass:
秘密: 管理者にだけ表示を許可する
 
トラックバック
この記事のトラックバックURL
http://happy2you.blog6.fc2.com/tb.php/1549-898cb29f
この記事にトラックバックする(FC2ブログユーザー)
この記事へのトラックバック
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。