フクフク丸のあずましいblog
あずましい=快適、すごしやすい  アナタの「心の元気」を引き出す   「漢方薬」に私はなりたい。
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2012/02/24 Fri  02:52:30» E d i t
 » 壁の向こう、扉の向こうへ 
 記事を書く時はまとめて書いて、書けない時は全く更新しない不定期更新ブログの管理人です。

 そんな適当なブログを読んでくださってありがとうございます。書きたいことはワンサカあるし、日々コンコンと湧き上がって参りますが、残念なことにそれを文章化する時間があまり無いのです。なので、瞬間的に感じたことや時事ネタなんぞは完全にタイミングを逸してしまう今日この頃です。

 ま、いいや。できないもんはできないんだし(笑)。

 この数日間連続で記事を書くことができたからと言って、このペースが続くワケじゃありません。たまたまです。
 

 ケータイとかに思いついたり、思い浮かんだ言葉なんぞをメール保存して取っておくのですが、寝かせている間に、何を言わんとしていたのかを忘れてしまうことがあります。我ながら解凍が難しい圧縮データということなのですが、さてさて、今回のこのタイトルもその一つです。


 「壁の向こう、扉の向こうへ」ですよ?この一言だけ保存されている。


 ・・・なんじゃいな?



 昨日の「器用貧乏」な人から学ぶことは、上手く行かなければすぐにやめてしまうという性質は何も残らないどころか信用さえも削り取られてしまうということです。

 器用であるがゆえに「もっと上手く、もっとスマートに自分ならできる」と考えてしまいがちですし、そうありたいがゆえに力を一点集中させている・・・はずなのに「自分は仕事ができる」と思い込んでいるために力を込めなければならない物事が物理的にも心理的にも散在していて、その空間を移動する時間や労力について無視してしまっているために疲れてしまい、どれもこれもが上手く行かなくなって途中で「こんなはずじゃないのに」と、当初は自分の能力に原因を求め、いたたまれなくなって協力者であった人間を批判した末に途中で止めてしまうんですね。

 自分の思い通りに上手く行かないのは何故なのか?
 原因は何なのか?
 どうしたらそれをクリアできるのか?
 どういう段取りでクリアするのがベストなのか?

 「そもそも自分たちは何をしたいのか?」

 今の状態からそこに至るにはどういう手順でそこに向かえば良いのか?

 
 出てきた結果が気に入らないから「無かったことにしよう」とできるのはテレビゲームの世界と、一人だけの世界で起こった出来事だけですよ。白紙になんて戻りません。どんなにキレイに消したはずでも必ず跡は残っているし、ケシカスも出て来るものです。
 器用貧乏と呼ばれる人たちは結局はその「後片付け」を途中でやめてしまうから「器用」の後ろに「貧乏」という有難くない言葉が付加されてしまうんですよね。他人をその場に呼び込んでおいて、都合悪くなると最初に逃げ出してあとは知らんぷりしている。せめて後片付けをしてから立ち去ればマイナス評価にはならないのに、逃げ出す。忙しいという理由が大義名分だと思っているから。

 そんな人が誰かに良く思われるワケがありません。
 良く思われなければ、友達も増えません。友達だと思っていた人も離れて行ってしまいます。実際、離れて行くのは友達の方では無くて、逃げている自分の方なのですけれども。
 

 
 その反対に一度は気に入らない結果が出たとしても、それが「自分の望む希望への通過点」だと考えて甘受し、挫けたところからまた別の方法を模索して壁に立ち向かって行くタイプの人がいます。失敗や敗北は人生に於いて望ましい結果ではありません。
 しかし、挫折から逃げずにそれを受け止めて立ち上がろうとする経験というのは時に得難い物を生み出します。それは応援してくれる人たちです。苦痛な経験というのは多かれ少なかれ誰しもが持っている「共通言語」ですから、挫折した人や努力する人に「自分がその場に置かれたら、そうありたい自分」「そうありたくない自分」を重ね合わせて見ているものです。

 そう。第三者は見ていないようで見ているのです。
 全てを見ているワケでは無いので、最初のうちは流れて来る噂や都合の良い嘘によって第三者の意見は刃のように挫折した人たちに襲いかかることもあります。しかし、その場からボロボロになりながらも立ち上がり、虚ろな目をしながらも挫折した壁に向かって弱々しくも意思を持ってまた歩き出す人に、立ち向かい続ける人に、第三者は自分を重ね合わせて手を差し伸べ始めます。
 その差し伸べられた手を握ろうと、断ろうとそれはその人の選択肢。でも、挫折し打ちひしがれた自分がもう一回立ち上がることを誰かに受け入れられ、見守られているということを知るだけで嬉しく、有難く、気持ちが奮い立つ。また歩き出せる。

 
 転ばない人間なんていない。

 転ばぬ先の杖で、転ばない人間を目指すのは結構。
 転ばないで済むならそれに越したことは無い。
 でも、転ばなければ杖の有難味は分からない。
 転ばなければ、差し伸べられた手の温もりを理解できない。
  
 転んで痛くてのたうち回って、それでも立ち上がって、また歩こうとするから仲間が増えるんです。


 
 一人で越えられなかったあの日の壁は、仲間の誰かがひょいひょいと越えられるかもしれない。他の仲間がロープを垂らして、それでみんなで越えられるようになるかもしれない。あるいは、スコップ取り出して穴をあけて向こう側に行くヤツがいるかも知れない。その穴はきっと誰もが通れるトンネルになるだろう。
 壁は、正面から叩いて叩いて、はね返されてはね返されてぶっ壊して進むだけが答えじゃない。仲間がいれば、色んな方法が生まれて来るものです。
 
 
 やがてはその「越えて行く誰か」が自分であるという壁に遭遇することもあるでしょう。

 
 そういう場面に立たされた時に、できるだけ多くの仲間がそこを一緒に越えて行けるような越え方ができるように、そういう自分になれるように、カラダを鍛えて、知識を増やして、知恵を練るのです。
 



 挫折から一旦逃げたっていい。どうせそれはアナタの後をついてくる。
 もう一度向き合う時が来たら、それをチャンスに変えるために必死で喰らいついてみよう。
 「アナタが思い描く未来」は「向こう側からしか開かない扉」の向こう側。
 だから、自分がここにいること、その向こうに行きたいことを向こう側の誰かに伝えるために、ノックし続けて、叫び続けるんだ。


 ノック、してますか?
 叫んでますか? 
 

 その音は誰かに響きますよ。
 その声は誰かに届きますよ。
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コメント
この記事へのコメント
よし!届いた(笑)
 えへへ。褒められちゃった。

 コメントありがとうございます。
 最近、ブログ記事が抽象的、寓話的傾向が強いのはそれは恐らく「リア充」に起因するものだろうと自己分析します。・・・というか、意識的にそうしてます。

 なんて言うんでしょうかね、具体的に書いちゃうとすぐにフクフク丸という仮面が剥がされちゃうんじゃなかろうか!と思うほどに、自分が社会と密接に関わり・交わり続けています。
 フェイスブックとやらが出て来て、実名登録でのネット交流が盛んになっているらしいですが、それはそれなりの良さがあり、それゆえに制限されてしまう事も当然出て来ると思うのです。私は、そういう窮屈な関係性はリアルだけで十分。リア十(笑)。


 ここのブログで具体的経験を引き合いにしてしまえば、「フクフク丸」で自由に遊べなくなっちゃうな~というのが一点。
 
 もう一点は、気がつけば子供たちがごく普通にインターネットの勉強をしているワケです。学校で。
 いつかまぁ、そのうちもしかしてここのブログの存在にでも気付いて何か読むことがあったら「ああ、お父さんも同じように悩んでたんだな」くらいに思ってくれたら良いなとか考えるようになりました。

 「答えなんて出て来ない悩みばかり。それでも俺たちは生きて行く。それが答えだ。」という。まさに日記ですかね。焦点をずらしてぼかした日記。でも、何となく宗教の本とかに出て来そうな回りくどい表現で、読み方によっては「真理」っぽそうなことを書いてる風な日記(笑)。

 自分で読み返しても面倒クセぇオッサンの話だなぁ・・・と。

 日常的具体的事例の比率のご意見、誠にありがたく思います。本当に長い間に渡って読んでくださっているからこそこのような変化に気付いて頂けるということですから。


 でも、これを書いてこうしてテツ師匠からコメントを頂いて、一番勇気づけられてるのは自分ですからね。
 以前の記事を読み返して、昔の自分の言葉が突き刺さって来たり、励まされたり、その記事に対してのコメントに同じように自分を見直す契機を作ってもらったりと、自分がこれを続けることによって一番たくさんの恩恵を受けるのはおそらく自分なんですよ。

 
 誰かに向けて書かれた文章があったとして、その人が置かれている状況に、明日は自分が置かれるかもしれない。その状況に置かれた自分が、過去の自分からの励ましを受け取れるなんて、普通に過ごしてたらあり得ませんよね。
 自分が今、考えたことや思ったことなんて2分後には別なこと考えて忘れちゃうんですから。

 だから「書くこと」は素晴らしいことなのです。


 さらにこうして対話をすることによってお互いの中にすでに存在しているのに言葉や形として出て来ていない「何か」が、少しずつ「言葉」や「形」として生まれ出て来る過程はとてもエキサイティングなので、それを体験してしまうといつでもそればかりを求めるようになってしまい、そういう「強敵(とも)」を探し求めるような時期を私も経て来ましたが、そういう中で見つけた繋がりが本当の財産に変化するまで、時間の経過が必要だということにも気付きました。

   
 丁寧に言葉を紡ぐ。
 丁寧に繋がりを続ける。これがこのブログの始まった頃からの基本姿勢です。

 
 自分だけの味わい。ニオイ。
 大事にしたいのは、それです。別に、それを誰かに不味いと言われても、臭いと言われても構わない。
 逆に強烈に好きだと言ってくれる誰かがいる。


 私にとってのブログ、ブログ文章はそういう感じです。
2012/03/01 Thu 09:45:57
URL | フクフク丸:to テツ師匠 様 #oKAhFFW. Edit 
その音は
弱々しくても壁の向こうに響く、叫ぶ声は小さくても扉の向こうで誰かが聞いている。

丸さんの文章に対する愛情溢れる記事を読む度、そう感じます。

HP、ブログ、つぶやき…万人が書き手であり発信者となり得るこの時代ですが、人気と言われるブログ、あるいは仲間ウチでも多くのコメントを集める日記が必ずしも面白いとは私は思えません。

面白いと言うよりは『器用』なのです。

食い付き易いタイムリーな内容載せ、コメントしやすい予定調和な記事を書く、足跡をつけ、影響力のありそうな人にはコメントを書き込み『オトモダチ』になる…そういう文章以外の営業努力だけは欠かさない人が多い様に思われます。

結果、文章自体はなんとも中身の無い味気の無いものになって行くのです。

挙げ句、気の効いたコメントでもしようものなら、つまらない記事をアンタがコメントで盛り上げてくれと言わんばかりの人までいます。

題材なんて何だっていいんです。
何が言いたいのか、何をその文章に込めているのか…文章を通して自分は何を実現したいのか?…そして手を抜くなと私は言いたい。
あまりに自分の文章に対する愛情がない人が多すぎる。

そう感じているのです。


最近ブログと言う表現手段を放棄している私が言うのもおこがましいですが、少なくとも丸さんの声は私に届いてますよ。


但し、文章はウエブを通じて発信される限り、書き手のものであると同時に受ける読み手のものでもあります。

近年の丸さんの記事の傾向としてあまりに、抽象的あるいは寓話的傾向がある様に感じますが、より日常的具体的な事例を織り混ぜて、読み手が受け取り易い様に門戸を拡げて下さいませ。

2012/03/01 Thu 01:41:59
URL | テツ(肉体改造家) #- Edit 
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