- 2011/01/12 bless you
2011/01/12 Wed 17:59:09 » E d i t
そいつは中学校に入学と同時に転校して来た。
笑顔が柔和で、明るくて、小さな田舎の中学校ではあったけど成績は常に学年で5番以内。
絵を描かせれば何かの賞をもらって来るし、スポーツ万能、男子に一目置かれ、女子にはモテるスーパーマン。こんな男子がこの世に存在しているのだ!と、知り合う誰もが自慢したくなるような存在。
そこそこに色んな物事に自信を持ち始めていて、そこそこに色んな事ができ始めて、色んな事が楽しく感じられて来たちょうどその頃の「僕」の行く先々の道に遥か先行く競走者の如く目を逸らしても逸らしても視界から消えることはなく、それでいて全く憎らしささえ感じさせることもなく、何とも形容しがたいジェラシーを抱かせるには十分すぎるほど十分な才能を持って、そいつは突如として「僕」の人生に颯爽と登場した。
今になって思い返すと、きっとそいつは「競争」を課せられた「僕」たちの時代の義務教育の中にありながら他人を打ち負かすことよりも自分を成長させること、自分の身の回りにいる仲間たちも一緒に成長することが大切なことであると幼いころからしっかりと教え込まれていたのだろう。
「自分の持っている全力を総動員して、自分がどこまでの存在なのかを確かめたがっている種類の人間」というのがどこにでもいて、おそらく「僕」とそいつはその種類の人間だった。世間の有象無象やテレビや雑誌の世界との比較で自分自身の立ち位置を測るよりも、「僕」とそいつは自分自身を、自分自身の言葉でぶつけ合うこと、引き出し合うことによって確かめ合うようになった。
「僕」はそいつと張り合える位置まで自分を高める必要があったし、そいつはそれでも「僕」の追撃をかわすかの如く先へ先へと進んで行っているように思えた。それはおそらく、年上の兄弟の存在の有無の差なのかも知れないとぼんやりとは思っていた。
そいつはやはりスーパーマンであるそいつの兄を良くも悪くも手本にしながら進んでいるかのように見えたが、「僕」には年下の兄弟がいるだけで、従兄弟を集めても一番年上の男子は「僕」だったので、自分のちょっと先を走っている存在がいなかったことは「僕」にとっては窮屈な状況だった。親戚の集まる席では大人に一番近い男児として扱われるし、それが子供扱いだとしてもその逆だとしてもいずれにしても特殊なものだったから。
「僕」はそういう中で自分がどうやって生きるべきかという模範を漠然と植え付けられたイメージでしかとらえられずにいたところに、その模範とできるような存在が現れたということだったのだろう。
目指すところがあると、成長は加速度を上げるのだろう。
そいつとの会話は常に刺激に満ちていたし、また、自分もそいつにとって刺激的であろうとすればするほどに飛躍的に冒険心や経験値が増して行った。
「僕」には昔からひとつの特性があった。
話をする時に虚飾しない。・・・というか、駆け引きが面倒くさくて自分の思っている事を素直に話すという特性があった。その言葉が出て来るまでに時間が掛かりはするのだが、基本的に相手から何かを引き出して行く途中で自分の方からその答えになりそうなシンプルな言葉が湧きあがって来るという特性があった。
そいつは「僕」のその部分に興味をもったらしく、面白がってよく話した。
シンプルな言葉が出てくる頃には、議論百出、お互いの思考の持ち駒が尽きるほどに話は続いたが、持ち駒が尽きると湧き出て来るその不思議な感覚こそが、今のフクフク丸の文章にも出続けていると思う。
人生は、旅だ。
そして、旅の途中で対話の相手に出会えることはこんなにも貴重で自分を成長させる。
今、そいつと私は頻繁にメール交換しながら相変わらずこの複雑な時代のシンプルな答え探しを楽しんでいる。おそらく、すでに私の中に答えは用意されているのだが、こいつがなかなか難産で出て来ない。そのうち、“親友”の方から答えが出て来そうなほどの勢いでやり取りしてる。
このブログを読んでくれている人がたまにコメントでくれる「不思議な感覚」はこの感覚の共有だと思います。「頭が良い」「文章力がある」とかそういうお褒めの言葉をいただくこともあるが、私自身はそんな者ではありません。ただ、ダラダラと文章を思いつくままに書き連ねていると、自分自身でも不思議な程にシンプルな答えが導き出されていたりするということなんですよ。
できれば、コメントでのやり取りの中でもっともっと考えを煮詰めて行きたい。そういう思いはあります。
でもね、ブログを開始した2006年頃と今とではネット環境も、ブログやツイッターの数も、内容も、情報量も何もかもが違いすぎるんですよね。時間的にムリなもんはムリ。
私自身も毎日の更新や、都度都度のコメント返信がムリになって来てますから。
いつかどこかの誰かが偶然、この文章を読んでくれた時に何かを発見してくれたらそれで良いと思って今日も書いてます。
さて、考えてみればその時期に出会った友人たちと、今なお変わらずに交流があるということ自体が奇跡みたいなものだが、そんな各々が過ごした時間を尊重しつつも吹き飛ばして、そこにいる人たちを「素裸の自分」「自分の芯の部分」にしてしまう不思議な能力みたいなものが、あのころの「僕」にはすでに備わっていたのかも知れない。
おそらく、それこそがこれからの私を拓いて行く最大にして最高の武器になるのだろうし、答えのヒントのような気はしている。
親友の誕生日に bless You !
笑顔が柔和で、明るくて、小さな田舎の中学校ではあったけど成績は常に学年で5番以内。
絵を描かせれば何かの賞をもらって来るし、スポーツ万能、男子に一目置かれ、女子にはモテるスーパーマン。こんな男子がこの世に存在しているのだ!と、知り合う誰もが自慢したくなるような存在。
そこそこに色んな物事に自信を持ち始めていて、そこそこに色んな事ができ始めて、色んな事が楽しく感じられて来たちょうどその頃の「僕」の行く先々の道に遥か先行く競走者の如く目を逸らしても逸らしても視界から消えることはなく、それでいて全く憎らしささえ感じさせることもなく、何とも形容しがたいジェラシーを抱かせるには十分すぎるほど十分な才能を持って、そいつは突如として「僕」の人生に颯爽と登場した。
今になって思い返すと、きっとそいつは「競争」を課せられた「僕」たちの時代の義務教育の中にありながら他人を打ち負かすことよりも自分を成長させること、自分の身の回りにいる仲間たちも一緒に成長することが大切なことであると幼いころからしっかりと教え込まれていたのだろう。
「自分の持っている全力を総動員して、自分がどこまでの存在なのかを確かめたがっている種類の人間」というのがどこにでもいて、おそらく「僕」とそいつはその種類の人間だった。世間の有象無象やテレビや雑誌の世界との比較で自分自身の立ち位置を測るよりも、「僕」とそいつは自分自身を、自分自身の言葉でぶつけ合うこと、引き出し合うことによって確かめ合うようになった。
「僕」はそいつと張り合える位置まで自分を高める必要があったし、そいつはそれでも「僕」の追撃をかわすかの如く先へ先へと進んで行っているように思えた。それはおそらく、年上の兄弟の存在の有無の差なのかも知れないとぼんやりとは思っていた。
そいつはやはりスーパーマンであるそいつの兄を良くも悪くも手本にしながら進んでいるかのように見えたが、「僕」には年下の兄弟がいるだけで、従兄弟を集めても一番年上の男子は「僕」だったので、自分のちょっと先を走っている存在がいなかったことは「僕」にとっては窮屈な状況だった。親戚の集まる席では大人に一番近い男児として扱われるし、それが子供扱いだとしてもその逆だとしてもいずれにしても特殊なものだったから。
「僕」はそういう中で自分がどうやって生きるべきかという模範を漠然と植え付けられたイメージでしかとらえられずにいたところに、その模範とできるような存在が現れたということだったのだろう。
目指すところがあると、成長は加速度を上げるのだろう。
そいつとの会話は常に刺激に満ちていたし、また、自分もそいつにとって刺激的であろうとすればするほどに飛躍的に冒険心や経験値が増して行った。
「僕」には昔からひとつの特性があった。
話をする時に虚飾しない。・・・というか、駆け引きが面倒くさくて自分の思っている事を素直に話すという特性があった。その言葉が出て来るまでに時間が掛かりはするのだが、基本的に相手から何かを引き出して行く途中で自分の方からその答えになりそうなシンプルな言葉が湧きあがって来るという特性があった。
そいつは「僕」のその部分に興味をもったらしく、面白がってよく話した。
シンプルな言葉が出てくる頃には、議論百出、お互いの思考の持ち駒が尽きるほどに話は続いたが、持ち駒が尽きると湧き出て来るその不思議な感覚こそが、今のフクフク丸の文章にも出続けていると思う。
人生は、旅だ。
そして、旅の途中で対話の相手に出会えることはこんなにも貴重で自分を成長させる。
今、そいつと私は頻繁にメール交換しながら相変わらずこの複雑な時代のシンプルな答え探しを楽しんでいる。おそらく、すでに私の中に答えは用意されているのだが、こいつがなかなか難産で出て来ない。そのうち、“親友”の方から答えが出て来そうなほどの勢いでやり取りしてる。
このブログを読んでくれている人がたまにコメントでくれる「不思議な感覚」はこの感覚の共有だと思います。「頭が良い」「文章力がある」とかそういうお褒めの言葉をいただくこともあるが、私自身はそんな者ではありません。ただ、ダラダラと文章を思いつくままに書き連ねていると、自分自身でも不思議な程にシンプルな答えが導き出されていたりするということなんですよ。
できれば、コメントでのやり取りの中でもっともっと考えを煮詰めて行きたい。そういう思いはあります。
でもね、ブログを開始した2006年頃と今とではネット環境も、ブログやツイッターの数も、内容も、情報量も何もかもが違いすぎるんですよね。時間的にムリなもんはムリ。
私自身も毎日の更新や、都度都度のコメント返信がムリになって来てますから。
いつかどこかの誰かが偶然、この文章を読んでくれた時に何かを発見してくれたらそれで良いと思って今日も書いてます。
さて、考えてみればその時期に出会った友人たちと、今なお変わらずに交流があるということ自体が奇跡みたいなものだが、そんな各々が過ごした時間を尊重しつつも吹き飛ばして、そこにいる人たちを「素裸の自分」「自分の芯の部分」にしてしまう不思議な能力みたいなものが、あのころの「僕」にはすでに備わっていたのかも知れない。
おそらく、それこそがこれからの私を拓いて行く最大にして最高の武器になるのだろうし、答えのヒントのような気はしている。
親友の誕生日に bless You !
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この記事へのコメント
みんなそれぞれに得意なことは違いますよ。
考え方だって、方法論だって、感じ方だって。みんなそれぞれですよね。
私から見れば、あなたが磨きをサボっているようには思えないのですが、自分自身が自分に対してそう思っているのであれば、あなたのお父さんやお母さんが小さい頃からあなたたちに対して継続的に伝え続けているメッセージを時間をかけて思い起こしてみると良いかもしれません。
それが一族に流れるメッセージなのか、あるいは自分たちの親の代に発生したメッセージなのか分かりませんが、時を越えて続く物というのは真理だと思うのです。
磨くと鋭利になりますか?
自分の「芯」にどんな言葉や行動があるか、それを知る術は他者との関わり合いの中にある・・・と、私は思っています。
考え方だって、方法論だって、感じ方だって。みんなそれぞれですよね。
私から見れば、あなたが磨きをサボっているようには思えないのですが、自分自身が自分に対してそう思っているのであれば、あなたのお父さんやお母さんが小さい頃からあなたたちに対して継続的に伝え続けているメッセージを時間をかけて思い起こしてみると良いかもしれません。
それが一族に流れるメッセージなのか、あるいは自分たちの親の代に発生したメッセージなのか分かりませんが、時を越えて続く物というのは真理だと思うのです。
磨くと鋭利になりますか?
自分の「芯」にどんな言葉や行動があるか、それを知る術は他者との関わり合いの中にある・・・と、私は思っています。
2011/12/29 Thu 18:22:56
URL | フクフク丸:to 熟成 様 #oKAhFFW. Edit
URL | フクフク丸:to 熟成 様 #oKAhFFW. Edit
おはようございます。
最近、友人との交流が盛んになってきて、
『上には上がいる』、『個性』、『自分の長所』
などのキーワードが頭のなかを駆け巡るときがあります。
立ち止まらずに『何か:努力』を『継続』していくことの意味を思い直す日々です。
自分の成長のために、他人から何を分けていただけるか。
そのために、他人に何を提供できるのか。
自分の持ち味を絶えることなく磨いていくことの必要性を、あらためて認識させていただきました。
最近、『磨き』をさぼり気味でしたが、
明日からまた、磨き続けるきっかけを与えていただきありがとうございました。
最近、友人との交流が盛んになってきて、
『上には上がいる』、『個性』、『自分の長所』
などのキーワードが頭のなかを駆け巡るときがあります。
立ち止まらずに『何か:努力』を『継続』していくことの意味を思い直す日々です。
自分の成長のために、他人から何を分けていただけるか。
そのために、他人に何を提供できるのか。
自分の持ち味を絶えることなく磨いていくことの必要性を、あらためて認識させていただきました。
最近、『磨き』をさぼり気味でしたが、
明日からまた、磨き続けるきっかけを与えていただきありがとうございました。
2011/12/29 Thu 04:53:30
URL | 1年後の発見(熟成後) #- Edit
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