フクフク丸のあずましいblog
あずましい=快適、すごしやすい  アナタの「心の元気」を引き出す   「漢方薬」に私はなりたい。
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2010/09/13 Mon  14:49:45» E d i t
 » 友有来遠方亦非楽也 
 私よりも一回りほど若い女の子の友達が、久しぶりに我が家に遊びに来た。




 「一回り」という表現が何の引っ掛かりも無く使えるようになるには、ほんのちょっぴり「自分が年を重ねたことを素直に受け入れるだけの時間」と「まぶしいほどの若さを羨まない程度の自分の頑張り」が必要な気がする。

 干支一回り、12年。
 今年35歳になる自分から上に一回り行けば現在47歳の人たちに当たり、下に一回り行けば23歳。二回りだと11歳。


 そうして年齢を俯瞰してみれば、干支というサイクルは自分の人生を考える上でひとつの区切りの良いマイルストーンになってる気がする。「12年で人間はどこまで成長できるのか?」とか「12年前はどうだった?」とか、単純に干支が同じ人たちに出会うとそのように考えるようなクセみたいなものが私にはある。他人の話を聞いていても、どうやら似たような計算式があるような気はする。
 
 誰がどうだとか、年がなんだとかあまり気にならなくなるには、世間様にそれなりに存在を認められるようなそれなりの自分が出来上がるまでの時間を要する。
 世の中の方ではとっくにその人の存在を認めていて、それに満足な人がいたり、認められていても自分の方ではその受け入れられ方やポジションが気に食わないとか、だから躍起になって違う自分になってやろうだとか、いろいろある。
 いろいろあって、それがそれぞれの個性なのだということに気がつくまでにも相当な時間を要する。

 個性という言葉が出てきたついでに脱線して書いておく。

 「個性を大切にしよう」ということを子供の頃からしつこく啓蒙されるのは、「自分と他人とは違うんだよ。だけどそれぞれが協力し合って社会は成り立っているんだから、自分も他人も大切にしなさい」という内容を凝縮した言葉なのだろう。
 日本の学校教育は実在しない誰かをお手本にした平均や平凡を作りだす事を得意とするシステムなのに「個性を大切に」だなんて、随分と矛盾しているという言葉にならない茫漠とした懐疑を私自身は長い時間持ち続けて、自分なりに語る言葉を見つけ出して煮詰めた末にやっと到達した解釈だから、学校の先生たちでさえなぜ個性を大切にしなければならないのかを自分の解釈で子供たちに説明できる人は多くはないだろう。少なくとも、私はその説明を受けずに大人になった。

 平均や平凡は、面白くねェからだよ。

 必死にそれを目指している人たちには悪いけど、わざわざ自分の良いトコまで削って平均目指さなくても良いじゃん。良いトコ伸ばして、いろんな人たちのそれと組み合わさって、良くないトコはフォローし合って、それでお互いが良くなれれば良いんだよ。
 
 
 さて、話を戻す。
 

 私は、若い人たちと話をする時に、意識的にオヤジ臭い話をするようにしている。若い流行だとか、そんな過ぎ去って消えて行くようなものにはすでについて行けなくなって久しいのでムリなんてしない。
 私から見た人生の流れを語る事で、彼らが行き詰った時にほんのちょっとヒントになったり、できることならサポートくらいできたらいいなって思ってる。私が先輩たちにして来てもらったように。そして、逆に自分が忘れてしまった若さとか新鮮なものの見方を思い出させてもらえたら、それが彼らとの共同作品になる。
 形の無い「共に歩む時間」という名の共同作品だ。
 
 大切にしているのはその人のリズムや熱度を尊重し、そこに同調する形で自分語りをするということだ。
 オヤジ臭くても柔軟を心がけ、みんなで笑っていられたらそれに越したことはない。

 みんなで笑っていられるように、強くならなきゃなんねぇ。素直に今はそう思える。勉強して、人の輪広げて、熟成させて、繋げて。 

 他人に周波数を合わせて語るためには、たくさんの周波数を持たなきゃいけない。それは恐らく、自分が経験したことや考えた事、心の動きの中で育まれて増えて行くのだろう。だから、色んな事に挑戦してみりゃ良い。今の自分が変わって行くことにビビって何もしなければ、世間の方が変わってしまって置いて行かれる。昔の知り合いが自分を指して「昔と変わらないね」って言われるってことは、昔と変わらないように努力を続けた結果なんだと胸を張って誇れば良いんだ。


 人はいつでも、誰かに肯定されて生きていたいように育って来る。団体行動が多くて、その意思決定は多数決で決めなきゃいけなくて、それによって決定された意思には従うように刷り込まれてるから。そういうルールに従順な子が「良い子」だということになってるから。
 「肯定してくれる人たちは多い方が良いし、できればみんなから好かれたい。」って、肯定してもらうために、他所行きの自分を装う。


 そのうち他所行きの自分がどんどん勝手に装飾品を増やして行って、それが普段着の自分とあまりにもギャップがあるようになっちゃって、迷子になる。着飾ってる自分も本来ならば間違いなく自分なのに、普段着の自分が本当の自分だって決めつけて、本当の自分を探すようになる。普段着の自分はその装飾品のど真ん中で雁字搦めでそこにいる。

 本当の自分はいつだって自分の背中に張り付いてる。
 
 でもね、迷子になる経験も必要なんだ。心の芯まで疲れてしまって「死んでしまいたい」って思っちゃうようなそういう経験したって良いんだ。そこからなんだ。それを背負ってる人、そうじゃない人、いろいろいるけど、人生は笑ってばかりいられない。だからこそ、どうしたら笑っていられるようになるか真剣に考えるようになるんだ。

 迷子になった寂しさや、苦しさを分かってるヤツの方が、きっと笑顔のありがたさも強烈に知ってる。装飾品のなかですすり泣いていたあの日の自分を笑わせる事ができるのは、やっぱ自分だけなんだよね。他の多くの誰かが肯定してくれなくても、自分が肯定できる自分であればそれで良いんだよ。自分に対して真摯に向き合って、自分の心と対話できれば、心の周波数は増幅されて広がって行く。広がった心の周波数は、誰かのチャンネルに合わせた時に、小さな肯定となって小さいけれども本当の自信がそこに生まれる。

 そんなことにも、いつか気付けば良い。
 



 
 何の話だったけね(笑)




 私よりも一回りほど若い女の子の友達が、久しぶりに我が家に遊びに来た。

 北海道の大学を卒業して、本州で働き始めて半年。
 良くカラカラと笑ってる子で、カラッと晴れた性格を武器に今日もファンを増やし続けていることだろう。

  
 友達が遠くから我が家に遊びに来て、元気な顔を見せてくれる。
 こんなに嬉しいことはない。
  
 
 彼女はうちの嫁さん。と何やらウマが合うらしく、これからの恋愛だとか結婚だとかその先に対してのいわゆる「マイルストーン」的な捉え方をしてるっぽい。ぴっこ(長女・8)は彼女をお姉ちゃんのように慕っている。考えてみれば、彼女が今の私と同じ35歳になる頃に、ぴっこは20歳になる。そうやって、世の中はサイクルして行くんだな・・・とか、ぴっこはその頃にこんなにカラカラと笑っていられる子に育っているだろうかな?とか、まぁそんなこんなのいろんなことを、酒を酌み交わしながらぼんやりと考えていたのだ。

 
 「不安なんて誰にでもありますよねー!」って達観した感じでカラカラ笑いながら、自分の道を邁進して行くあなたのその姿にはホント、勇気づけられるよ。 
 
 また来いよ。みんな待ってるぜ。




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