フクフク丸のあずましいblog
あずましい=快適、すごしやすい  アナタの「心の元気」を引き出す   「漢方薬」に私はなりたい。
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2012/02/28 Tue  11:34:01» E d i t
 » 火曜一言 
 なにが 支援 だ。

 支援 できるほど自分たちに余裕があるのかどうか

 それを先に考えろよ。
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2012/02/28 Tue  02:14:27» E d i t
 » 火曜一言 
 この夢が終わらないように祈る


 夢を叶える途中にいる自分が


 夢を叶えようとしていろいろ考えて


 動いている自分が


 すごく楽しくて

 
 とても好きだから


 結実しないことを祈るのではなく


 終わらないことを祈る


 ひとつ叶えて終わりじゃなくて


 
 叶えた先にまた夢を見る
2012/02/24 Fri  02:52:30» E d i t
 » 壁の向こう、扉の向こうへ 
 記事を書く時はまとめて書いて、書けない時は全く更新しない不定期更新ブログの管理人です。

 そんな適当なブログを読んでくださってありがとうございます。書きたいことはワンサカあるし、日々コンコンと湧き上がって参りますが、残念なことにそれを文章化する時間があまり無いのです。なので、瞬間的に感じたことや時事ネタなんぞは完全にタイミングを逸してしまう今日この頃です。

 ま、いいや。できないもんはできないんだし(笑)。

 この数日間連続で記事を書くことができたからと言って、このペースが続くワケじゃありません。たまたまです。
 

 ケータイとかに思いついたり、思い浮かんだ言葉なんぞをメール保存して取っておくのですが、寝かせている間に、何を言わんとしていたのかを忘れてしまうことがあります。我ながら解凍が難しい圧縮データということなのですが、さてさて、今回のこのタイトルもその一つです。


 「壁の向こう、扉の向こうへ」ですよ?この一言だけ保存されている。


 ・・・なんじゃいな?



 昨日の「器用貧乏」な人から学ぶことは、上手く行かなければすぐにやめてしまうという性質は何も残らないどころか信用さえも削り取られてしまうということです。

 器用であるがゆえに「もっと上手く、もっとスマートに自分ならできる」と考えてしまいがちですし、そうありたいがゆえに力を一点集中させている・・・はずなのに「自分は仕事ができる」と思い込んでいるために力を込めなければならない物事が物理的にも心理的にも散在していて、その空間を移動する時間や労力について無視してしまっているために疲れてしまい、どれもこれもが上手く行かなくなって途中で「こんなはずじゃないのに」と、当初は自分の能力に原因を求め、いたたまれなくなって協力者であった人間を批判した末に途中で止めてしまうんですね。

 自分の思い通りに上手く行かないのは何故なのか?
 原因は何なのか?
 どうしたらそれをクリアできるのか?
 どういう段取りでクリアするのがベストなのか?

 「そもそも自分たちは何をしたいのか?」

 今の状態からそこに至るにはどういう手順でそこに向かえば良いのか?

 
 出てきた結果が気に入らないから「無かったことにしよう」とできるのはテレビゲームの世界と、一人だけの世界で起こった出来事だけですよ。白紙になんて戻りません。どんなにキレイに消したはずでも必ず跡は残っているし、ケシカスも出て来るものです。
 器用貧乏と呼ばれる人たちは結局はその「後片付け」を途中でやめてしまうから「器用」の後ろに「貧乏」という有難くない言葉が付加されてしまうんですよね。他人をその場に呼び込んでおいて、都合悪くなると最初に逃げ出してあとは知らんぷりしている。せめて後片付けをしてから立ち去ればマイナス評価にはならないのに、逃げ出す。忙しいという理由が大義名分だと思っているから。

 そんな人が誰かに良く思われるワケがありません。
 良く思われなければ、友達も増えません。友達だと思っていた人も離れて行ってしまいます。実際、離れて行くのは友達の方では無くて、逃げている自分の方なのですけれども。
 

 
 その反対に一度は気に入らない結果が出たとしても、それが「自分の望む希望への通過点」だと考えて甘受し、挫けたところからまた別の方法を模索して壁に立ち向かって行くタイプの人がいます。失敗や敗北は人生に於いて望ましい結果ではありません。
 しかし、挫折から逃げずにそれを受け止めて立ち上がろうとする経験というのは時に得難い物を生み出します。それは応援してくれる人たちです。苦痛な経験というのは多かれ少なかれ誰しもが持っている「共通言語」ですから、挫折した人や努力する人に「自分がその場に置かれたら、そうありたい自分」「そうありたくない自分」を重ね合わせて見ているものです。

 そう。第三者は見ていないようで見ているのです。
 全てを見ているワケでは無いので、最初のうちは流れて来る噂や都合の良い嘘によって第三者の意見は刃のように挫折した人たちに襲いかかることもあります。しかし、その場からボロボロになりながらも立ち上がり、虚ろな目をしながらも挫折した壁に向かって弱々しくも意思を持ってまた歩き出す人に、立ち向かい続ける人に、第三者は自分を重ね合わせて手を差し伸べ始めます。
 その差し伸べられた手を握ろうと、断ろうとそれはその人の選択肢。でも、挫折し打ちひしがれた自分がもう一回立ち上がることを誰かに受け入れられ、見守られているということを知るだけで嬉しく、有難く、気持ちが奮い立つ。また歩き出せる。

 
 転ばない人間なんていない。

 転ばぬ先の杖で、転ばない人間を目指すのは結構。
 転ばないで済むならそれに越したことは無い。
 でも、転ばなければ杖の有難味は分からない。
 転ばなければ、差し伸べられた手の温もりを理解できない。
  
 転んで痛くてのたうち回って、それでも立ち上がって、また歩こうとするから仲間が増えるんです。


 
 一人で越えられなかったあの日の壁は、仲間の誰かがひょいひょいと越えられるかもしれない。他の仲間がロープを垂らして、それでみんなで越えられるようになるかもしれない。あるいは、スコップ取り出して穴をあけて向こう側に行くヤツがいるかも知れない。その穴はきっと誰もが通れるトンネルになるだろう。
 壁は、正面から叩いて叩いて、はね返されてはね返されてぶっ壊して進むだけが答えじゃない。仲間がいれば、色んな方法が生まれて来るものです。
 
 
 やがてはその「越えて行く誰か」が自分であるという壁に遭遇することもあるでしょう。

 
 そういう場面に立たされた時に、できるだけ多くの仲間がそこを一緒に越えて行けるような越え方ができるように、そういう自分になれるように、カラダを鍛えて、知識を増やして、知恵を練るのです。
 



 挫折から一旦逃げたっていい。どうせそれはアナタの後をついてくる。
 もう一度向き合う時が来たら、それをチャンスに変えるために必死で喰らいついてみよう。
 「アナタが思い描く未来」は「向こう側からしか開かない扉」の向こう側。
 だから、自分がここにいること、その向こうに行きたいことを向こう側の誰かに伝えるために、ノックし続けて、叫び続けるんだ。


 ノック、してますか?
 叫んでますか? 
 

 その音は誰かに響きますよ。
 その声は誰かに届きますよ。
2012/02/23 Thu  03:00:55» E d i t
 » 器用貧乏という生き方 
 その人は何やらかにやらと資格をたくさん持っている人だ。


 何をするにもひとまず苦労話と自慢話。
 一生懸命に精を出した資格取得、その努力を誉めて欲しい。一目置かれたい。
 自分が優秀なのをアピールしたい。
 それ良く分かる。
 でも資格は成果じゃないから。
 大概の場合、それが入口。


 あれもできます、それやります。これもできますよ。

 ・・・え?そんなことできないんですか?



 滅多やたらと自分の能力をアピール。あちこちで。
 その割に、誰かが何かを頼んでみても随分と反応なし。


 すみません、ちょっと忙しくて。寝る時間無くて。仕事多くて。


 忙しさをアピールされても、こちらにメリットなし。
 
 

 あれもこれもできるから、とにかく忙しい。
 あれもこれもやりたいから、すごく忙しい。


 忙しい は デキる じゃない。
 取り掛からなければ できない。



 
 寝る間を惜しんであなたのために仕事しました。してあげました。
 できて来たのは損得勘定まるで無視無視ボランティア企画。


 「それなんですか?」
 「アナタそれで本当に大丈夫なんですか?」
 「飯食えますか?」



 「こちらは利益確保させてもらいますよ。最低この線は必要だ。」
 「アナタ大丈夫ですか?本当に大丈夫?」



 平気ですよ、自分はあなたのために仕事してるんです。してあげてるんですから。
 自分が儲けようなんて思ってませんから。






 案の定、企画は初動で頓挫。



 え?だってそれ自分のせいじゃないですよ。自分は精一杯やりました。やってあげたでしょ?
 あんなに忙しく動き回って、やってあげたでしょ?
 あれもこれも抱えてる中で精一杯やったでしょ。やってあげたでしょ?
 なのに上手く行かないなんて、あなたのせいですよ。自分のせいじゃないですよ。



 一切の反論はしませんでした。
 お疲れ様でした。




 憐れなもんだ。
 あっちに行っても、こっちに行っても、結局のところ同じ評価しかもらえてない。
 呆れられて、仲間から外されて。

 それでもアナタはこういうでしょう?


 忙しいから、なかなか顔出せなくなったから。
 自分、今、こっちで忙しいから。



 「優秀」なのにね。褒めてもらいたいのにね。
 褒めてくれるから胡散臭いのを頭から信じてみたり、
 認めてくれるから面倒事を引き受けて、できなくて信用落としたり。


 「優秀」じゃない自分をもっと自分で認めてあげたら良いのにね。
 そんな自分を褒めてあげたら良いのにね。

 
 誰のために一生懸命になってるのか、思い出してよ。
 他人に認められるためじゃねーでしょーが。
 自分のためでしょ。
 自分のために一生懸命やる結果、他人が認めてくれるんでしょ?



 巡り巡った噂を久しぶりに聞いて、あまりに悲惨な言われようで
 さすがに聞いてて良い気分じゃなかったからさ、
 だからね。
  


 いつか何か残せたら良いね。
   
2012/02/22 Wed  02:40:27» E d i t
 » ひとつ 
さて、「サブリナ」に続いてもう一曲。

長渕剛の「ひとつ」だ。この曲はラジオ局側のパワープレイではなく、リスナーからのリクエストで掛かる割合が非常に多い。ラジオ好きな人なら分かって頂けるであろうが、リクエスト曲は自分の思い出が籠もった昔のヒット曲やあまり一般的に知られていないようなマニアックな歌、あるいは流行りのドラマの主題歌なんかが多く、曲そのものの良さでリスナー側からのプッシュで数多く流れる曲は、今の時代じゃ珍しいように思う。こう、聴き手の芯に染み入る歌、感情移入しやすい歌というのは、ラジオでプッシュされると「時の歌」になりやすい。

「吾亦紅」がそうだったし、遡れば「愛は勝つ」もラジオでつないでテレビでホームランした典型例だ。


長渕の魂のボーカルだの、心の声だのとややこしいことは抜きにして、すごく優しくて大きな歌だと感じる。
 ただこの歌だけを単独で聞いてもそう感じるだろうし・・・「とんぼ」しか知らない人には何だか分からない話だろうけど・・・これまで彷徨い続けた長渕ソングがここに流れ着いたのだという、大河ドラマを見いだすことができる。


私が好んで聴いていた頃の長渕ソングを文字通り「ひとつ」に集約したような歌詞と、聞き取りやすいスローテンポのメロディーとが沁みてきて、聞いていると自分の中に流れ込むようで、その流れ込んで来るものが自分の中で滞っていた色々な物を涙腺に運んで来る。車を運転中に流れて来ると、危ない(笑)。



口ずさんだ歌詞に「順子」の歌い出しがあることに気づく。悲しみを抱きしめて共に生きるというのは、私が聴いていた頃の長渕ソングの根底に流れる深い優しさを思い出させてくれる。 腰を下ろしてふさぎ込んでも見つけられなかったあの日の答えは、今でもやっぱり見つからないけど「悲しみを抱いて君と一緒に共に生きる」と決めた自分がここにいる。サクラ舞い散るあの橋のたもとに「君」を探したけれど、会えなくて、ずっと探して、流したキラキラ光る溢れる涙はきっと「君」に届くだろう。永遠の幸せを探しても見つけられない姿には、私が好きなあの頃の「幸せはなるものじゃなく感じるものだ」という、答えは自分の中にしか無くて、自分で決める以外に方法はないのだという姿に“至る前”の逡巡していた季節が重なる。


長い長い時間を、青春の暗い闇を、長渕と過ごした私たちへのアンサーソングと、東日本大震災の先にある新たな時代への高らかな宣言。

 そう感じるのだ。


これから一緒に育つ歌、一緒に歩いてきた歌、これからも一緒だと歌う歌。


つーけまつーけ♪と楽しそうに歌うのも歌なら、鼻歌うたいながら泣きそうになるのもまた、歌。
 見た目のパフォーマンスも、味わいながら聞くのもそれはそれで大切なのだろうけれど、やっぱり歌は口ずさんで、歌ってこそ歌だというのが私の考え。

 なんだか、久しぶりにそういう歌がラジオから聞こえて来て嬉しくなった今日この頃。


 
2012/02/22 Wed  02:05:36» E d i t
 » サブリナ  
 ここ最近、ラジオを聴いているとほぼ毎日耳に入って来る曲がある。

 「サブリナ」と「ひとつ」だ。


 「サブリナ」の方は私が良く聞くラジオ局のパワープレイで流れているのだが、最近の歌手にしては珍しく耳に残る曲だ。耳に残ると言えば「つけまつける」という曲が我が家の子供たちが歌うパワープレイになっているのだが、アレはアレで曲として上手くできてるもんだと感心する。しかし、きゃりーぱみゅぱみゅサンがどうしてもイロモノ的な扱いなのに対してサブリナを歌う家入レオさんは久しぶりに登場した荒削りパワーのある本格ボーカリストという扱いのような気がする。

 四六時中どこかのテレビ局に出て来るAKB48とジャニーズは別格として、たくさんの人たちが「この時代」を共有できるような歌というものが少なくなった気がする。その理由はテレビがバラエティー全盛で音楽番組が減ったことや、そもそもテレビさえも誰かと見るでもなくケータイワンセグで一人で見たり、音楽はCDセールスよりもダウンロードランキングを集計した方が人気度合いが分かりやすかったり、ダウンロードした音楽は携帯音楽プレーヤーなんかでひとりで聞く場面が多くなったからなのだろう。
 

 きゃりーサンは積極的にYoutubeでPV動画を配信したりしてるし、まぁなんか時代が変わっちゃったってことなんですよ。これは。

 松山千春がデビュー前に足寄から毎週新曲を携えてSTVラジオに通って、プロデューサーの方と曲作りをしながら、ラジオ番組とリスナーと一緒に松山千春というアーティストが育って行って全国区の大人気を博したなんていう時代はとっくのとうに過ぎちまったワケで。

 
 「一緒に育つ」というのは、日本人の好きなことなのかも知れない。けれど、宇多田ヒカル以降(なのか・・・)ボーカリストは完成品の状態で世の中に登場することが多くなった気がする。椎名林檎もaikoも大塚愛もmisiaも絢香もアンジェラ・アキも、ほとんどがデビューの段階で音楽性が確立された状態で登場して来て、それを良い意味で裏切らず、悪い意味では壊さずにいる場合が多い。椎名林檎は敢えて虚像を壊しに掛かるけど、自らの才能はそれを上回っていて破壊しようとすればするほどに椎名林檎が膨らんで行く感じかな。
 
 逆にモーニング娘。やAKB48などのアイドルグループは、荒削りどころかそこら辺の石を拾って来て磨いて磨いて光らせるというパターンが受け入れられるらしい。見ている側がハラハラしてしまうほどに素人丸出しのヘタクソで、「一緒に育つ」の典型例だ。結局、モーニング娘。の今のメンバーはテレビに出ていない分、リスナーやオーディエンスと一緒に育って行く機会が少ない。ドリームモーニング娘。で再結成した初期のメンバーは泣き笑いをテレビ番組で逐一放送されて、視聴者がそれと一緒に成長したのだった。
 AKBに至っては、秋葉原に行けば成長して行く本人たちに会うことだってできちゃうんだから秋元康さんはスゲーことを考えるもんだと感心する。
 
 
 成長型ボーカリストの代表と言えば安室奈美恵になるだろうか。とにかく「平坦な感動に興味は無い」とばかりにステージ上の彼女の変貌過程と成長ぶりからうかがえる精神的なタフネスと情熱と努力と才能は、彼女が十代の頃から見続けている人から見れば、常に憧憬の対象であり続けるだろう。
 同じ時代に出て来てくれてありがとうと素直に言える存在だ。あ、そういえば中島美嘉も成長型かな。

 
 さて、家入レオである。
 家入レオは完成品なのか、「一緒に育つボーカル」なのか。

 勝手な予想ではあるが、レオさんは後者だと思う。
 声なんだよな~。良い声。キレイな声でないんだけど、味がある声。音域が広いとかとてつもない高音域が出るとかそういうことじゃない。真似したくなるパッパッパパパ~♪自分の作詞作曲の域を越えて、たくさんの作詞家さんや作曲家さんから愛されるようなボーカリストを目指して欲しいと切に願う。

 それも、ある程度「家入レオ」を確立してからということになるのだろうけど。

 どんな風に成長して行くのかワクワクするようなアーティスト、こちらに力が伝わる「サブリナ」。
 たくさんの人が口ずさむことができる歌詞やメロディーというのは歌や曲として結構重要なことだと思う。どんなに伝えたいことがあっても、どんなに魅力のある歌声でもそれが難しければそれはやはり世間にはなかなか沁みて来ない。

 
 デビュー曲にして、CD発売前からいろんなところで話題になってすでに耳に残っている曲って、改めて言われなきゃ気付かないけれども、凄いことだ。



 長くなったので冒頭に書いた「ひとつ」については別記事にて。

2012/02/21 Tue  08:34:17» E d i t
 » 火曜一言 
 意外とね、ヒントは足元にあるものじゃないですかね。

 どうしても捨てられなくてまだ持ってる中学時代の宝物とかをね、もう一回見直してみたら

 出て来るんですよ。


 あの頃大切にしてた何かがそこにあるから、あぁ、これ捨てられなかったんだ。




 
2012/02/08 Wed  18:02:32» E d i t
 聞いた話によればどうやら2012年というのは人類にとってターニングポイントだと言うではありませんか。



 宇宙人が人類の前に姿を現すとか、人類が滅亡するとか、マヤの予言がどうだとかこうだとか私が大好きなトンデモ情報が「2012年」というのをひとつのキーワードのように語っている辺りが興味深いですね。実際に、予言や終末観が大好きな我が国では実際にその引き金ともなり得るような天変地異や自制の利かない文明進歩がもたらした人災が発生し続け、人々の心も疲れ果てていますからそういう話にすがりたくなる気持ちは良く分かります。


 すがってるんですよ。


 この先、明るい未来を思い描くことができませんから「どーせなら終わっちゃわないかなー」って考えて。しかも「どーせ終わるんなら思いっきりドラマチックで、誰も言い訳不可能、説明不可能な終末が来ないかなー」って。
 例えば我が国で言えば経済が破綻して思いっきりド貧乏になって餓死者が出たり病気が蔓延してしまったり、お隣の国の政情不安が飛び火して来て国土が戦場と化してたくさんの人たちが犠牲になったりという、現実的に起こり得ることには目を向けません。

 だって、あまりにもリアル過ぎて怖いから。
 

 だから、現実逃避なんですよ。それでも2012年というキーワードはずっと前から提示されていたものですし、それに向かって人類が跋扈する世界の方は明らかに破滅の方向に向かって来たことは疑いようのない事実ですから、それを懲らしめるために「神様」とか「宇宙人」が登場して欲しいと願うのは、怪獣が暴れ回っているからウルトラマンに出て来て欲しいと願うのと同じことです。ただ「怪獣」が自分たちと同類の「人類」だったというだけの話で。

 どこかで誰かにブレーキを掛けて欲しい。
 でも「誰か」がどこかで踏み込んだアクセルを離さない。
 アクセルを離してスローダウンした世界も想像できない。
 だから自分もアクセルを離せない。
 自分だけはいつでもアクセルを離せると思い込んでいる。
 なのにいつの間にか踏み込んだアクセルが足を離しても戻って来ない。

 どこかでアクセルを離さない「誰か」が「自分」だとみんな実は気が付いている。


 さて、「その状態で大きなカーブに突っ込むよ」というのが今の時代の正体でしょう。
 見通しの良い直線道路は終了。

 
 どうなる?
 上手く曲がりきったとしても先は見えない。

 ブレーキ掛けてゆっくり曲がってもその先の道がどうなってるかなんて分からない。

 いっそフルスピードでカーブに突っ込んで一か八かドリフトでも掛かればタイヤはまた擦り減るけどこのコーナーはやり過ごせるか。路外に逸脱して大炎上するか、意外にも逸脱した先に誰も見たことのない新しいコースが広がっているのかもしれない。


 カーブ突入は避けようのない事実。
 幾ら目を逸らしても事実。だから、目を逸らす。

 言い訳不可能なくらい、説明不可能なくらいの「神風」でも吹かないだろうかと。


 
 そんなもん、吹きませんよ。
 人類が滅ぶような事は起こらない。起こってくれない。


 昨年、東北地方を襲ったあの大地震、大津波。
 それを延々とテレビ画面を通して見続けていた日本。無力感。脱力感。全てにおいて圧倒された。
 原発事故。不安。絶望。戸惑い。誰も真実を伝えない、何も信じられないことの再確認。

 生きる希望と力強さという表面的な報道と、冷酷すぎるほどシビアな現実。


 
 私たちはみんな、たくさんの事を一気に経験したのです。
 そして、私はひとつの答えを先日見ていたDVDのセリフの中に見つけました。


 「私、中の下じゃないですか。だから、頑張るしかないんですよ。頑張るしかないんだよ。」
  (『川の底からこんにちは』木村佐和子:満島ひかり)
 
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・ 

 私、頑張るの嫌いです。
 背伸びなんて大嫌いだ。面倒臭いことは増えて来るし、今までしなくて良いことしなきゃならなくなるなんて嫌だ。


 でもね、やりますよ。
 頑張るなんて言葉は嫌いだ。なんて余裕かましてる場面じゃないですから。
 だから頑張る。

 私が頑張るからあんたも頑張れなんて言わないですよ。
 私は私のために勝手に頑張って行くだけです。

 
 「明日 世界の終わりが来ても ダンスナンバーで 踊り続けよう」(ダンスナンバー)
 「見て来たことや 聞いたこと 今まで覚えた全部 でたらめだったら面白い」(情熱の薔薇)
 「ドブネズミみたいに美しくなりたい」(リンダリンダ)


 なぜか、ブルーハーツのあれやこれやが胸に去来するこの頃なのです。
 生きるために必死になる姿は汚くて、臭い。でもそれが美しい姿なのだとそういう思いをもう一度思い出さなきゃならないだろ。
 

 ・・・・・・・・・
 

 いろいろ考えるのですよ。
 「UFOって“未確認飛行物体”だからUFOなんだよね。じゃあ、フツーに確認された後はただの“飛行物体”すなわちFOになるのかな~」とか「長年に渡って全人類のファンタジーであり続ける宇宙人が姿を現す時が来るとして、その目撃者になれるんだったらそれはラッキー」とか。



 そんな自分と、あんな自分が混ざり合いながら今日も私は鼻歌を歌いながら生きてます。
 
 

 
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