フクフク丸のあずましいblog
あずましい=快適、すごしやすい  アナタの「心の元気」を引き出す   「漢方薬」に私はなりたい。
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2010/06/29 Tue  16:56:10» E d i t
 » 火曜一言 
 さてさて・・・

 次から次へと目線を変えて、次から次へと展開して行くのは良いにしても

 やりっ放しの散らかしっぱなしじゃあ、足元から崩れますよ。

 
 
 まあ、足元固めてばかりで次に行かないのもそれはそれで考え物ですけども。

 
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テーマ:とほほ・・・な日々 - ジャンル:心と身体

2010/06/29 Tue  16:51:38» E d i t
 » 火曜一言 
 自分が無駄にしてしまった時間は「しょうがねぇな」で諦めつくけど、

 誰かに無駄にされてしまった時間はどうしてこんなに腹立つんだろう。


テーマ:♪人生・生き方♪ - ジャンル:ライフ

2010/06/29 Tue  15:43:02» E d i t
 » 火曜一言 
 「誰かのために」

 は、


 「誰かのために頑張ってる自分が好きだ」ってことでないか?
 「それを褒めてもらえるのが嬉しい」ってことでないかい?
 


 自分のためなら頑張れる。
 自分で自分を褒めれないから、褒めてくれる誰かを探してる。
 


 すべて「自分のため」でも、良いじゃん。人間臭くてさ。

 
  

テーマ:(`д´)ウオォォォ!! - ジャンル:日記

2010/06/26 Sat  16:34:26» E d i t
 » 3点目こそ! 
 サッカーのワールドカップで日本代表が決勝トーナメント進出を決めたデンマーク戦。

 
 陰に隠れて目立たないが、MF・DF陣の守りの堅さも熱かった。
 キーパーの川島もど根性が表に出て来て凄く良い!


 本田の無回転FKは確かにカッコよかった。
 遠藤のFKのコースは凄かった。



 でもね、本当に勝つための点の取り方は3点目の岡崎のゴールだと思う。
 テレビじゃあんまり取り上げないけどね。
 私はああいうゴールが大好きだ。



 あれは多くの人が「本田が蹴ってもゴールだったよ」とか思うだろうけれど、あのポジションまでボールを運ぶシーンを今回のワールドカップだけでも今まで何度見て来た事か。

 思い起こせば、それらを日本代表はことごとく力んだシュートでゴールの枠外へ「クリア」してしまって来たじゃないか。

 

 ハイライトで見てればそりゃ確かに世界のスター選手たちはドリブルから凄いシュートに繋げて得点を挙げたりしているけれど、勝つために必要なのはカッコ良いシュートよりも着実な1点の積み重ねだから。シュート特集を見てれば見た目にカッコ悪い地味な「泥臭い」得点の方が実は多い。
 


 本田のドリブルはカッコ良かった。けれどGKが本田に向かって飛び出るのを見てガラ空きのコースに走り込んだ岡崎と、目の前にゴールが有りながら岡崎にパスを出した本田。

 
 
 That’s team play!! 


 一人のゴールはみんなのゴール。




 一見ワガママなエースに見られがちな本田に、そんな姿勢が見えるからこんなにすがすがしい勝利なんだということを、見逃してはならない。エースが本当にチーム全体の事を思っている時、チームの結束力は強い!
 
  
 
 まあ、岡田監督はじめ日本代表への日本国内のマスコミやにわかファンたちの評価が手のひら返したようになってることについても書きたいことはいろいろあるんだけれども、こうして結果が伴ってくれば細工(さいく)は流々(りゆうりゆう)仕上げを御覧(ごろう)じろと胸張って言えらぁね。


 
2010/06/23 Wed  06:34:30» E d i t
 » 君と僕との解決手段 
 その日、私は仕事やらプライベートやらで面倒事が重なってそれに時間を費やしてイラついていた。



 家に戻って私が晩飯を食べていると、先に晩飯を食べ終え仲良くキャッキャと遊んでいた子供たちが何かのはずみで口論になっていた。本気の口論では無くて、じゃれあいのヤツだ。


 長女(7)は小学生らしい小生意気な悪口を並べて弟を一気にまくしたてるが、長男(5)は幼稚園児らしい支離滅裂な悪口を姉の大声早口に圧倒されつつもカウンターのごとく突き刺して行く。


 だんだん二人の声のボリュームも口げんかのボルテージも上がって来て、おかげさまで私のイラつきもマックス寸前。

 

 ハッキリ言って、私は自分の都合や状況を周りの人たちに押し付ける。
 偉ぶって表情や行動に感情を出さないようなタイプではない。

 愉快な時は愉快だし、不愉快な時は不愉快な態度がそのまま出る。ま、さすがに二度目の17歳ともなれば多少のさじ加減くらいはできるけど。

 
 子供たちにとってみれば「おとなしい親」では決してないのだ。




 
 次第次第に二人のテンションが上がり、遂にお互いに「なにさ!やるのかぁ!」「おーし、やってやる!」とかいう所まで来る。

 
 
 やかましさにイラつきも頂点を迎えていた私のカミナリ雲がゴロゴロと唸り始めた、その時






















 「 にぃらめっこしましょ、笑うとまっけよ、あっぷっぷ 」 










 

 え?



 解決方法はそれか?



 ビックリすると同時になんか知らんがやたら感動した。
 マックスだったイラつきも一発で消えた感じだ。



 
 しかも、顔と顔で勝負をつけるものだと勝手にこちらが思い込んでいたものが、なにやら長男が一発ギャグを口走った瞬間に、長女が爆笑して決着はついたらしい。その爆笑につられて笑い上戸の長男もゲラゲラ笑う。




 にらめっこは笑って負けだろうけど、負けて勝つとはこのことか。笑えば自分も周囲も穏やかになる。そんな当たり前のことなのに、イラつきの中では当然笑顔にはなれないから、自分だけじゃなく周りの空気も尖ってしまう。

 いろんなことの最終解決方法が にらめっこしましょ なら、どれだけ素敵な世界になるだろう。


 
 子供たちの発想には、いろんなヒントがちりばめられている。
 かつては自分の中にもあったはずなのに、大人になるため着飾っていつしか埋もれてしまった大切なヒントが。


 子育ては親も共に育つ事・・・なんて、育児雑誌に良く書いてる言葉を思い出した。









 ゲラゲラ笑う二人を見て、私も小さく笑った。
 ありがとう。


 

テーマ:成長記録 - ジャンル:育児

2010/06/22 Tue  06:28:04» E d i t
 » 火曜一言 

 政治がどうなろうと、俺たちの生活は続いて行くんだ。

 
 偏った報道に振り回されるより、自分で触った感触、目で見たもの、聞えてくる音、嗅いだにおい、魂に刷り込まれた味覚・・・そういうの信じた方がずっとマシな人生だと俺は思うけどな。

 

 
2010/06/22 Tue  06:22:23» E d i t
 » 火曜一言 
 
 俺に夢を見させてくれる10歳上くらいの人がいて欲しい。

 ほんっと、切実に思うよ。



 
2010/06/22 Tue  00:00:11» E d i t
 » 火曜一言 
 

 「楽な方」と「楽しい方」は同じとは限らないけど、自分が楽しいと思う方を選べばいいよ。



 
2010/06/20 Sun  00:21:31» E d i t
 » 満点よりも大事なこと 
 小学2年生の娘がもらって来るテストはいつでも、何の教科でも100点がついている。
 最初のうちは「おぉ。さすがウチの娘は優秀だべ~」なんて思わないことも無かったが、見てみりゃ何のことは無い、間違いもやり直させて100点にしてるだけだ。

 どのテストも間違ったところに×がついておらず、代わりに赤ペンで四角を書いてやり直しをさせている。無論、最初にあるべき当然の採点の数字はどこにも書かれずに100点だけが書かれている
 ついでにそのやり直した四角の中の答えも間違った答えなのに、○がつけられてたりする。

 ・・・職務怠慢じゃねぇのか?とさえ、たま~に思う。


 
 それは恐らくは先生による、低学年の生徒が勉強に対してのモチベーションを低下させまいとする配慮なのだろうけれども、少なくともその中のひとりの親である私にしてみれば余計なお世話だ。



 そりゃテストに100点がついてれば子供たちだって“おうちの人”に見せやすいのは間違いなかろう。でも、それは自分の力で本当に到達した理解度を示してないでしょ?ある意味「偽装工作」だし。それとも何か「お宅のお子さんが持って来るテストが100点ばかりなら親の自慢の種にでもなるでしょ?」くらいに思われてるんだろうか?

  
 日本の家庭学習の時間が減っていて、それが先進諸国や後進諸国の学習時間と比較した場合にやたらと短くて憂慮されているらしいことはテレビやラジオのニュースでよく耳にする。それでまぁ、日本の親の反論とすりゃ「塾にやってるから良いべや」となるんだろうけれども。


 私が子供たちに願うことは、誰もが羨ましがるような大学に行ってくれということじゃなく、せめて手書きで誰かに思いを伝えられるような手紙を書けるくらいには文字や文章を書けたり読めたりできるようになって欲しいし、人生設計のために緻密な資金計画を立てて実行するまで行かなくても、せめて買い物する時に大雑把に金額を分かるくらいの計算はできるようになって欲しいことくらいだ。
 あと、社会の仕組みは教科書通りには行かないけれど、せめて教科書に書いてある事が間違いのない真実などではないということくらいはいつか気付いて欲しい・・・まぁ、それはさて置き、前述の国語と算数の応用が生活に活かす事ができる部分は学習で言えば小学校の中学年程度までで築かれる基礎の部分だろうと思う。
 
  
 つまり、できていないものはできるようになるまで反復しなければ後々の学習にも影響してくるし、まずもって100点だからと安心していては生活に直結する肝心な部分だって危うくなるということだ。
 

 おそらく、この文章を読んでくれる方々にとっては「何を大袈裟に」と思われるかもしれない。しかし、以前目撃したことについて書いたこの記事を読んで、あるいは思い出して頂きたい。

 
 → 420円だってば!


 「100点を取るために勉強してるんじゃねぇんだぞ」とは、私が小さい頃からの父親の口癖だった。みんなが100点を目指す中で、その真意を理解するまでに時間は掛かったけれども今ならばハッキリわかる。学校のテストの100点は、それまでの学習の積み重ねがあって完全に理解していれば自ずからついてくるものなのだ。だから、学習を積み重ねろという意味だったのだ。おかげさまでこの年になってなお新しい情報を取捨選択しながら自分の人生の舵切りに活かしている事を考えれば非常に意味のある刷り込みだったと感謝する。

 そんなストイックな事を子供に言ったって、やがてはその点数が人生を左右するような局面に嫌でも立たされることになるから、そんな時には葛藤に苛まれることにもなるだろう。だがしかし、人生はその局面の先にも続いて行くのだ。

 ならば、偽物の100点よりも本物の65点の方が意味はあるし、それを克服しようとするから努力の意味が生まれ、それこそがやがては報われる努力であり、その味を知ればこそ挫けても立ち上がって歩いて行けるようになって行くのだと思うのだが。



 




 そんなことを言うだけ言っておきながら、子供が家に帰って来てからたまにしか勉強の様子を見てあげられてないな・・・と猛烈に反省する父なのであった。

  

 

テーマ:小学生の子育て♪ - ジャンル:育児

2010/06/19 Sat  00:41:53» E d i t
 何の脈絡も無いけれども、突然このブログの歩みを振り返って29歳の自分から34歳の私を見た時にあの頃目指した「輝ける30代」を過ごせているのかを自らに問い掛けてみようと思う。



 そもそもが「輝ける30代」なんて実に抽象的な目的ではあるが、あの頃とは確実に変わったことがある。
 それは、人脈の広がり。おそらくは、自分で書いていてコメントをもらって誰かと共に考えるという作業を繰り返した結果、人と人との繋がりの重要性に“改めて”というか、本当に気付いたことが一番大きい。

 まだ親が健在で、さらに子供も育って来て・・・そういう意味で「自然発生的な副次的人脈(●○さんの息子さん、とか○×ちゃんのお父さんとかって感じで)」も増えて行く時期ではあるのだが、自分が動く事で作られて来る「自分を起点とする人脈」も間違いなく広がりをみせた。
 29歳時点では、そう改めて意識したわけではないのだが、それまで培ってきた「小さいけれども濃密な関係性」を大切に護ることで狭く濃縮された世界の中に自らを置いていることが多かったが、それはその濃密で矮小な自己を世間に飛び込むことで変えられてしまうということが怖かったのだろうと思う。

 自分の価値観が変わってしまうことを極度に恐れていた・・・というか、嫌っていた。


 
 ブログは単純に趣味(主にプロレスについて)を熱く語れる仲間や場所が欲しかったということもあって軽い気持ちで始めたが、濃密で矮小な自己を肯定してくれる人たちが読んでくれて感想を述べ合い、語らうことで互いの社会との関わり合いというか、ネットを通して匿名での存在の肯定という名の安心や成長を促進するツールであることに気付くと、自然に熱を帯び極めて小さな集団でありながら互助し合うような関係性が発生したり、ちょっとしたことでそれが簡単に崩壊したりする過程を経て、経て、たくさん経て、濃密さという熱は若干放熱されては来たようにも自分でも感じる。

 それは、このネット上の関係性の中で少なからず目の当たりにしたことや経験したこと、そこから汲み取れる人間心理をそのままリアルの関係性に持ち込んで、現実の私が新しい友人たちの前で言葉を放ち、行動し、熱を発散するようになったからであって、人間としての総合的な熱量はなんら衰えてはいない。それどころか年齢と共に益々高まってさえいるように思える。
 自分が真っ当だと感じることを感情にストレートにさらけ出しているバカさ加減は相変わらずだが、世の中の仕組みを知った上で今と同じ自分でいられる自信が無いからわざと目を背けていた29歳の自分と少しくらい違うのは、世の中の仕組みを知ろうとちょっとは他人の話を聞いたり同情したり同調したりしながらも、自分の信じたことを現実に織り込みながら、混ぜ込みながら自分の色を浸透させてやろうとイヤらしく画策したり仲間集めしている辺りがちょっと違う。

 それが成長したのか後退したのかは知らないけれども、少なくとも自分ひとりの濃密で矮小な世界を社会にリンクさせ、小さくても自分の色で波紋を起こし続けることができるようになった。この波紋が新しい波になるのか、かき消されるのか、そんなことは分からない。ただ、自分が「波風立てる」人間だったことを自分で認識し、それを周囲の人たちがそう認識し、同調してくれる人たちさえいるというのはこれはこれで痛快な物だ。


  
 振り返れば、遥か遠くに来たかのように思えるが、これは29歳の自分が自分の背中を押し始めて、そこから自分自身がたくさんの人たちの手を借りながらどうにかこうにか歩を進めて来られたからそう感じるだけであって、34歳の私の背中にあの頃の自分たち、たくさんの方々の声がぴったりと張り付いて今でも背中を押し続けている。
 「立ち上がれ、歩き出せ」っていつでもね。

 
 私はずっと書き続けてきた。
 「転んでも立ち上がれば良い、挫けて一休みしてもまた歩き出せば良い」と。

 時に表向きは誰かのために、その内実は確信犯的にそれは自分から自分へと向けた大事なメッセージとして。

 
 29歳の自分が「なかなかやるじゃん、30代」と笑うのであれば、34歳の私は「オマエがその一歩を踏み出したからだぜ!」と笑ってやろう。





 フクフク丸のあずましいblog は、そんな私とそんな私を応援してくれる稀有な方々による人生の記録です。
 




 別に振り返ったからと言って、ブログをやめちまうとかそんなことじゃないんですよ。
 ただ、前ばかり見てるのも息苦しくなる時もあるからたまに振り返って、足元を見直そうかなって思っただけで。


 さて、30代も半ばに突入して久しいです。私たち「飽食の時代」にいろんな化学物質をガッチリ取り込みながら子供時代を過ごした世代はどのくらい生きられるんですかね?人生80年とか90年とか言ってますけど、そんなの自分がどうなるかってことを示唆してるワケじゃないですからね。どこまで行けるかのペース配分するより、今できることを探し出してそれに熱を吹き込むことを続けて行く。

 30代後半には「アホだけどなんかカッコイイおっさん」と近所の子供たちから崇拝されるようなオッサンを目指そう!そして胸を張ってガキどもにこう言ってやるのだ。

 「俺のようになれよ!」と。

  

テーマ:ガンバレ!!私ヽ(*´∀`*)ノ - ジャンル:ブログ

2010/06/18 Fri  06:19:11» E d i t
 » 公園 
 こどもたちのはしゃぐ声
 沁みる空

 夏の日差し
 濃色の影

 
 


光と影の遊び場



 涼やかな風
 寝転んだベンチの堅さ


 
 
 

テーマ:写真にコトバをのせて - ジャンル:写真

2010/06/15 Tue  16:33:23» E d i t
 » 学びの意義 
 「学びは喜びである。」なのだそうだ。
 「知らない事を知ると言う事は素晴らしいこと」なのだそうだ。
 そのためにできるだけたくさんの人と出会い、触れ合って交流することは価値のある事なのだそうだ。



 本当だろうか?




  懐疑。

 
 常に懐に疑いという名のナイフを抱えて私は生きるようになった。
 素直、正直、それも良い。


 何も知らない、何も迷う事が無ければ素直さや正直さは美徳とさえ思える。


 共に行く者と未来を作るとき、背負いし者を守るとき、懐疑というナイフをちらつかせ、誰かの言葉を睨みつける。
 例え、それが誰かを傷つけようとも。 



 この「何も知らないということを恐れる不安」こそが「学び」への飢餓的欲求の源泉だと思う。

 

 知れば知るほど不安は解消されるが、新しい希望の扉を開くとともに新しい不安も一緒に流れ込んで来る。人生とはその繰り返しなのだろうと思う。


 学びの意義は「不安から逃れる術を探し続けるがゆえに、新たな不安という束縛に雁字搦めになること」なのかも知れない。私は、誰かの答えに懐疑を添えて自らに問い掛ける。学びとは常に己を問いただす懐疑と言うナイフを研ぎ澄ますためのもの。



 だから、私たちは常に孤独を背負う存在なのだ。
 だから、誰にも理解なぞされないのだ。




 だから、仲間を探すんだ。
  



 
 安心したいから。

 
   
2010/06/15 Tue  04:47:43» E d i t
 » 火曜一言 
カッコ悪い(結果になる)ことが嫌だって、何もしないで文句ばかり言ってる自分が一番カッコ悪いって、本当は心のどこかで気づいているくせに。
2010/06/08 Tue  00:00:55» E d i t
 » 火曜一言 
 大した事ないことにこだわるな。

 こだわらなきゃならない事を簡単に諦めんな。



 
 たったそれだけのことだけど、それが分かるまで、そしてそういうポジションまで自分を持って行くことがなかなか難しい。


 
2010/06/05 Sat  06:23:24» E d i t
 » 面倒くさいこと 
 人間って、自分ひとりだと思っていてもいろんな繋がりの中で果たすべき役割みたいなのが幾つもありますよね。そういうのが複雑に絡み合って社会の一員としての自分を形作っている。

 何を言わんとしてるかというと、私は「私」であり、妻から見れば「夫」であり、子供たちからみれば「父親」であり、子供たちが学校に行けば「PTA」であり、親から見れば「息子」であり、弟妹から見れば「兄」であり、会社に行けば「社員」であり、その中の○○部の「一員」であり、仲間内では「友達」であり、趣味の集まりでは「まとめ役」であり、ここでは「フクフク丸」であり・・・と、とにかくさまざまな輪の中でさまざまな顔を持ち合わせていて、それらを微妙に使い分けて組み合わせながら生活してますよね。交友関係や信頼関係は名刺の交換や挨拶を交わした人数では無くて、それらの人々と時間を掛けて力を合わせて何を作り出して来たかということによってのみ深みを増して、広がって行きます。


 恐らく、学生生活が終わって社会に出て来る時に「自分を見失う」と感じるのはこのことを言っているんではないだろうかと、今の私であれば何となく理解できます。学生生活は大概の場合は何だかんだと言っても負うべき責任は少ないものだから社会から逸脱していても「学生」だと名乗っておけば多くの場合は社会からも大目に見てもらえるし。社会に出たら一気にアレもコレもと増えて行く「自分」に自分自身が迷子になってしまうんでしょうね。

 社会の方では「オマエ、こうしろ」とは言って来てないハズなんだけど、自分が勝手に責任を足枷みたく感じちゃって「こうしなきゃならない」「こうあるべきだ」という実際は存在しない概念を推し量って枠にハマって身動きが取れなくなってしまう。身動きが取れないから邪魔者扱いされる。

 社会には社会の泳ぎ方や息継ぎのしかたがあって、それは自分自身が溺れながらマスターして行くしかないことなんだろう。運が良ければ良いコーチに出会うだろうし、運が悪けりゃ沈められる。いきなり泳げる人もいれば時間を掛けて泳ぎ方をしっかり覚えてから物凄い勢いで泳ぎだす人もいるだろうし、泳ぐのが嫌だから岸辺でモジモジしっぱなしの人だっている。色んな人がいて、それで社会ですからそれでいいんです。

 
 
 話を戻します。


 まぁそうして様々な顔を持ちながら生きている私たちですが、面倒くさいことってなんか一気にやって来る気がしませんか? 


 いやホント、一難去ってまた一難とかってことじゃなくて、去る前に重なって来るというか。



 あるでしょ?なんかそういう時期。


 そんな時期です。今まさに。
 そんな時は、とりあえず立ち止まって様子見。これです。

 
 
2010/06/04 Fri  17:10:36» E d i t
 » キモカワ-カワ 
 海面なんて何もないトコじゃないですか
 なにも無いトコにヒトが権利をつけるためにって
 浮いてただけなんです



 本当ならばそれだけの役目なんですってば


 だからさして目立つでもないハズなんですけどもね


 
 なんだかいつの間にやらこんなことになってしまって・・・ええ



 皆さんに指差されますよ・・・ええ



 





 円盤生物



 こんな俺でもなぁ、カワイイって言ってくれる人がいるんだぞ!


 ・・・か、母ちゃんだ!(by冷越豪)



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2010/06/04 Fri  06:52:32» E d i t
 » 躊躇を突き抜ける狂気 
 最初に断っておきます。プロレスの話です。

 IWGPヘビー級タイトルマッチ「中邑vs真壁」がやっと放送されました。やっとと言うのは、プロレスファンであれば御存知かと思いますがこれ5月3日の試合なんですね。ちょこっと5月4日にその話題に触れて「プロレスの居場所」という記事を書きましたけれども、北海道での地上波放送は約一カ月遅れが当たり前になっております・・・。ええ。スカパーは相変わらず入れてません。・・・なんか踏ん切りつかなくて。


 相変わらず、週刊誌やらスポーツ新聞、あとはプロレスファンの方々のブログなどでその状況や試合後のインタビューを活字で捉えて、脳内でイメージは完全に膨らんだ後で映像を見るという何ともちぐはぐな状況になるワケですが、他のスポーツだと結果が分かってしまったら見る気も失せてしまうところがプロレスや格闘技だと、技のつなぎや試合の流れ自体がすでにひとつの無形文化なので自分の目で見て改めて感じ入ることが多々あるので、情報の順番がどうとかはあまり気にせず見ている者です。いや、ホントは早く見たいけど。


 真壁が遂にチャンピオンになった試合、良く良く見ているとテクニックとスピードで翻弄して行く中邑真輔とパワーで直線的に押して行く真壁刀義のプロレスは非常に噛み合わないんですよ。その噛み合わなさがまた新鮮だと言うか、妙な緊迫感を醸し出すんだな。それでいて両者共にブリッジや抑え込む時の体の使い方に神経が行き届いているから肝心なところが大味になること無く程良い緊迫感が描き出される。ところが、同じようにキレイなスープレックス(ハーフネルソン、タイガー)を放っても真輔の仕掛ける技に観客の反応は鈍く、真壁のそれ(ジャーマン、ドラゴン)には観客席が爆発する。この辺りにプロレスの勘所の違いが表れる。


 真輔が最初から持っていた「生意気さ」を前面に押し出してナチュラルヒールという自然な立ち位置を手にしてから、観客の方も違和感なく真輔のプロレスを理解できるようになったと思う。棚橋がいる以上は真輔はどんなに頑張ってもその一足飛びな経歴が逆に重荷になってベビーフェイスは務まらない。また、凶器を使って試合をぶち壊すようなヒールと言うのも未来のエースとして成長中の今はやめて欲しい。だから観客が見ていて心地良いような試合の流れを寸断して突如試合を決めてしまうようなUWF系・・・それも藤原のようなレスラーを目指すと良いとずっと思っていた。今は高田+藤原のようなレスリングスタイルだが“格闘技アレルギー”が今なお残り続ける新日本プロレスでは丁度良いナチュラルヒールぶりだと思う。


 一方で真壁はと言えば、すっかり観客を味方につけることができるレスラーへと変貌を遂げた。リング上はもとより、マイクパフォーマンスも週刊誌でのインタビューでもカッコつけてないで本気で本音を晒すような言葉の選び方ができるようになった結果だと思う。私はリング上でみせるプロレスの質やマイクパフォーマンスの内容に雲泥の差があるとは言え「涙のカリスマ」大仁田厚を想起する。体現して見せているのだ。真壁の人生そのものを。そして、虐げられし弱き物の叫びが伝わってくるからこそ、日常生活に抑圧されている社会人としての観客の心に響く。会場に行くまでは全然意識してないのにリング上の姿を見ていると自然と応援したくなるレスラーがいる。真壁はそれだ。真壁のプロレスは「我等の心の解放政策」なのだ。だから、プロレスファン以外の人にも響きやすい。

 
 そして、暴走カリスマコング真壁が、遂に突き抜ける瞬間が来た。


 真壁の雪崩式パワースラムで真輔の左肩に明らかに異常が発生。通常、ルールに則って行われるスポーツでは異常が発生した時点でその選手は交代や退場、あるいは試合が強制終了させられるシステムになっているが、プロレスでは「決着」が望まれる。他のどんな競技がどうであろうとプロレスは暗黙の了解でそういうものなのだ。

 レフェリーもリングドクターも異常を察知して試合を止めるかどうか躊躇している。躊躇。この空気だ。試合はクライマックスを迎えている。観客の気持ちも昂ぶっている。しかし、選手の一人が続行可能かどうかギリギリの怪我をした。真輔も、真壁も、レフェリーも、おそらくあの場にいた全ての人たち、そしてそれを見ていたたくさんの人たちの心に「隙間」が生まれた。



 プロレスはそれを超えなければならない。超えて行かねばならないのだ。



 プロレスラーとしての「覚悟」を明示したのは真輔だった。脱臼した左肩を右腕で支えながら真壁に力無くキックを放つ。放つ。放つ。おそらく真輔が見せた底力はこれが初めてではない。IWGPに初挑戦した若かりし日、高山のヒザ蹴りを顔面に受けて明らかに異常をきたしている中で戦い続けたあの試合を思い出す。しかし左肩は古傷で、2007年のG1準決勝でも永田から同じように雪崩式のエクスプロイダーを受けて、さらにナガタロック、腕ひしぎ十字固めで脱臼という経緯があるから。あの時も真輔は立ち上がった。この男、止まらないッ。

 そう、中邑真輔は止まらないッ!!


 もはやあからさまに異常をきたしている部位を攻めようなんて、平常時の人間ならば思いもしないだろう。平和と安心に満ち満ちた生活を送っている私たちからすれば、怪我が発生した時点でレフェリーストップが採択される格闘技興行に慣れてしまった世代からすれば。

 総合格闘技は無残で残酷であるがゆえに美しい。努力して来た物が吐き出される間もなく一瞬で勝負が決まることもある儚さが美しい。「酷」が残り続けるから残酷だ。

 プロレスは「過酷」だ。無残や残酷の向こう側。「酷」を過ぎた場所に存在するのがプロレスだ。酷を越えて、結に向かわせる。その結にどのような色をつけるのか?それがプロレスなのだ。

 
 しかし、プロレスのタイトルマッチでこの状況で「普通」でいたら、そのレスラーはもう一生掛かってもチャンスを掴むことはできないだろう。止まらない真輔を、受け止めて仕留める。それがその時点で真壁に課された使命。

 ショルダーバスターから、美しいブリッジのドラゴンスープレックス!

 直接、肩や首をダイレクトに狙った攻撃。
 どう考えたって異常だ。しかし、異常であるが故に美しい。勝負とは非情なものだ。 
 
 真輔も乾坤一擲、左肩の痛みをこらえて真壁のラリアートをビクトル式の腕十字で捕獲するも、右腕一本では極めきれず、立ち上がった真壁に左肩を踏みにじられる。
 ここまで魂を魅せ続ける真輔に凄味すら感じられる。

 しかし、それをねじ伏せるために真壁が放ったのはうつ伏せにした真輔へのダイビングニー。

 そして、とどめのキングコングニードロップ狙いでトップロープに上ったところに、執念で立ち上がろうとする真輔。その顔面~左肩向けて、ためらいもせず、叩きこんだッ!膝をッ!!!

 何度でもふり絞り立ち上がろうとする真輔のプロレスラーとしての覚悟と心意気に対して躊躇なんていらない。真壁もとっくに決めていた覚悟だろう。相手が壊れようとも勝つ!勝って自分が全てを牽引する!!覚悟を越えた狂気さえも感じた。そう、狂気だ。プロレスは狂気なのだ。トップロープでためらいを見せたら真壁刀義は真壁伸也に戻ってしまっていただろう。“ためらいもせず”叩きこんだことが真壁を勝利へと導いたのだ。

  
 感無量の真壁のインタビューがあったが、私は真壁というレスラーが頂点に立ち「本気」で世の中を変えて行こうとしていることに感銘を受けている。それと同時に、中邑真輔という大いなる未来に真壁という名の熱い心血が注がれたことで何が生まれて来るのかを非常に期待して見ている。



 一見、水と油だが、真壁と真輔はとても良く似ている。



 相手を倒すために狂気に突き抜けるプロレス。恐れを知り、その上で立ち向かうプロレス。何度でも立ち上がって喰らいつくプロレス。おそらくこれは「勇気」を体現している。勇気を忘れた時代に様々な物を私たちに問い掛ける、素晴らしい試合だった。


 プロレスの幸せは、試合が終わった後に見た者の、感じた者の胸に去来するそれぞれの物語を味わうことの幸せである。

  
 
2010/06/01 Tue  06:09:27» E d i t
 » 火曜一言 
 ダラダラに流されるのはホント、楽。

 でも、楽なんだけど嫌なんだよ。「なんか違う」ってブレーキ掛ける。

 それが良いのか悪いのか・・・でも、みんな心のどっかに「なんか違う」があるんだろね。

 
 流され流されて、堕ちて堕ちて、そこからの再出発しかあり得ないワケじゃないんだけど、ホント、日本人って極端が好きなんだよな。叩きのめされたってその先に希望があると信じられるなら、まだ希望が消えないうちにそれを守って大きくすること考えた方がよっぽど早いじゃんか。

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