フクフク丸のあずましいblog
あずましい=快適、すごしやすい  アナタの「心の元気」を引き出す   「漢方薬」に私はなりたい。
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2006/11/29 Wed  04:28:52» E d i t
 » 免疫低下中。感染危険。 
あ~さ 目覚める た~び~に~・・・
め~ざめ~る
目覚め・・・

目・・・

目が開かないッ!!! なんじゃこりゃぁ!?

 まるで何かに縫い付けられたかのようにマブタが開かないッ!!
 瞳を閉じて君を想う余裕すら無いッ!!

 
 恐る恐る触ってみる・・・
 どうやら何層にも渡って 目ヤニ が私のマブタを閉じている様子。

 そりゃまあ、数日前から ものもらい(目バチコ) の様相を呈してはいましたよ。

 
 ……あー……


 両目とも


流行性角結膜炎

 だと診断されました。

 兎年生まれの私ですが、こんな真っ赤な目になんぞならなくていいのに。
 
 そ~れにしても涙が止まらないどーぉしよ~

 涙に触れたら感染します!目に触れた何かに他人が触れると感染します!空気感染はないけど、接触感染要注意です!

 今、我が家ではフクフク丸完全隔離政策中です…

 あー…危ないから下がってくださーい…

ってことで、ウブな女みたいに今夜も熱く胸を焦がそうと思っていたら…


 おまけに、38・5℃の発熱
 頭痛に倦怠感。

 なんなんだコレ?
 どうなんだオレ?焦げたのは胸ではなくて喉でした。

 喉が腫れ上がり、書き入れ時のこの時期にウイルスを掻き入れている私でしたぁぁぁ…
 ああ、 結膜咽頭熱 ってヤツですか。

 
 >夏にプールを通して子供たちの中で流行することが多いので「プール熱」と言いますが

 北海道は時期的に夏でもなく、プールにも久しく行っておらず、さらには子供かと問われれば精神年齢以外にはそれに該当するところが無さそうな私なのですが・・・。



 隔離政策中なので一人寂しく壁際に寝返り打ってみます。
 さらにひねくれて星をにらんでみます。


 ああ、眼科で取ってつけたように「今、流行ってるんですよね~」とか言ってましたので、どうぞ皆様におかれましても、手洗い・うがいの励行にて予防願います。

 いや、どう考えても普通の方々よりも手洗いもうがいの回数も多い私がこんなのに掛かってたら何の説得力もないんですけどね。
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2006/11/25 Sat  05:37:37» E d i t
 » 自信持とうぜ、大人! ① 
 ●まずは、大人になる君達へ

 うんと若い人たちは、大人が言ってることが正しいと思うでしょう。
 
 あるいは大人になりかけの時期には、大人の虚勢と実際の顔の矛盾に気付いて「キタネェ大人になんかなりたかねえ!」と反発することでしょう。

 でもね、いつか気付いて欲しいんですよ。
 大人もみんな、君達と同じ年頃を通過したのだということを。

 少なからず、同じように考えて同じように苦悩したのです。

 大人は「自分の頃とは違う」「なぜそこまで?理解に苦しむ」といつの時代もそう言います。それは時代の流れを 他人事のように傍観 してしまっているから出て来る言葉なのだと思うのです。「キタネェ大人になんかなりたかねぇ!」って思ってたのにね。・・・いつの間にかなってる。
 
 でもね、もう「あの時代」じゃないんですよね。

 その「良かった子供時代」を作ってくれてたのはいつだってその時代の大人たちなのですから。
 今の子供達が「良かった」と思えるような時代を作って行くべき責任は、誰にあるんでしょうかね?
 今の時代の大人たちにあるのではないでしょうかね?

 どこに歪(ゆがみ・ひずみ)が発生して、問題の多発する世の中になったのかの原因・犯人探しもその糾弾も大切なことです。原因を発見しなければ対策も立てられないのですから。

 ただ日本人の特徴として、原因を発見したらそれで納得してしまう部分があって「アイツが犯人だった」「アイツのせいでこんなことに」「責任を取ってもらおう」これで全部が解決すると勘違いしてるフシが見受けられるんですよね。

 すでにこうして流れてきてしまった時代を良いと思われる方向に変えて行くのは、自分たち一人ひとりなのだということに気付いてはいるのかもしれませんけれど、どこかで「時代の流れには勝てない」と、諦めてしまう・・・。

 勝つとか負けるっていう話じゃないのにね。

 まず、結果を求めてしまうんですよね。それも自他共に浸れるほどの理想的な結果を。大きな理想を掲げる割には、そうなるように生きてない。だから 夢 が 夢のまま置き去りにされて行く。

 結果は 目標に向かって進む道の上で、ひとつひとつの小さな継続の過程で獲得して行くもの なのだと思うのです。

 ね?

 大人も迷ってるんですよ。
 時代の流れ= 集団 に流されながらでも、長い物に巻かれながらでもしたたかに、自分に誇りを持って自分の人生に納得しながら生き抜くことがね、理想だけが高すぎる故にヘタクソなんですよね。きっと。 
 
 私もそんな大人の一人ですから、その辺はよく分かる。



 ●自分の経験や感情に嘘をつかないこと

 いじめている側の心情を理解できない大人の皆さん、胸に手を当てて周りを良く見て考えてみてください。
 世の中は 差別 の温床です。
 
 何かを基準(この基準が誰かに決められて、マスコミが煽り立てる平均的な数字による場合が非常に多い)に考えて、敗北感や劣等感を持ったり、より劣っていると感じられる何かとそれよりは幾分マシなところにいる自分とを比較して優越感を感じたりしますものね。

 ああ、私なんてモロありますよ。

 思い出してみりゃ学生時代なんてその真っ只中だった・・・。

 テスト返されて学年の平均点が発表される。
 その平均点から何点マイナスだったら赤点だとか。
 だから、平均点より上だってだけでなんと安堵したことか。隣のヤツの点数と見比べてどれだけホッとしたことか。

 テストという物は、学習の達成・習熟度を測るためのシステムのはずなのに、点数を取る事のみが優先されるし、点数を取れば良いという考え方が教員にも、社会システム自体にも大いに組み込まれていますからね。

 今にして思えば、平均点なんて全然まったくマルッとサラッと関係ない話ですよね。
 だって、平均点が高ければ それだけ教師の教え方が上手かった というだけのことだし、平均点が低ければ 逆に教え方が下手だった という指標になるだけの話ですから。

 自分の理解度を図る上で、平均点との比較なんて全然まったくマルッとサラッと関係ない。

 そんなカラクリに踊らされて、平均点との比較が大好きなまま相変わらずマスコミに上手い事操作されてる気がするんですよね。
 団塊世代~団塊ジュニア世代の人たちって。

 幸福度は自分が感じるものですから誰かとの比較の中で優位になることで幸福感が得られるのであれば、自分が上に行けるように努力すれば良いと思うんですね。
 ところが、自分が上に行くための努力よりも、自分よりも劣っているものを探すため、自分が安心感を得るために自分の優越感をかき立ててくれるような、自分よりも弱っちい存在を見つけることへの努力(これを努力と呼んで良いのか?)の方が先に来てしまってる場合が多いと感じるんですよ。
   
 世の中全体が。
 これって いじめ の元凶だと思うんですね。私は。 
2006/11/25 Sat  04:48:15» E d i t
 » 負けんな若者!2006④ 
●いますぐできることは何だろう?

 防止策と有効策に分けて書いた方が良いのかも知れませんね。

 まずは、有効策から行きますか~。
 有効策というのは、今、実際に起きている いじめ への対策です。

 「負けるな若者!」という表題に書いてるくらいですから、具体的に書いておきますけど、この場合の私が考える「負ける」というのは最悪の事態=「自殺する」ことです。

 
 我々の世代あたりには、特に男の子には

 

困難に立ち向かうこと= 善

 
 

困難から逃げる事= 悪(卑怯)


 という不文律(なんとなくそういう感じ)が存在します。
 誰がいつ決めたものだか知りませんけれど、多分、武士道という物に感化されて、それを軍隊的に解釈して教育に使われていた思想がこれなのだと思います。

 え~、私もこれには賛成です。
 だって、立ち向かわないと失敗にも成功にも至れませんからね。
 いろんなことに挑戦してりゃ困難にも出会いますからね。

 でも、やみくもに何でもかんでも立ち向かえば良いってモンじゃないですよ。コレは。前提として生きていてこその挑戦なのですから。

 困難でも、頑張れば乗り越えられるもの と 頑張るだけ頑張っても今は乗り越えられないもの があるんですから。進めば進むほど沈んで行く泥沼だってあるんですから。

 ※死んではいけない。

 頑張って乗り越えられそうな壁なら、頑張ってみれば良い。
 でも、今持っている力では乗り越えられない壁だと悟ったならば、良い言葉を伝えておきます。 「三十六計逃げるにしかず」
 
 次に向かうためにいったん退く事は卑怯でも何でもない。
 死んでしまったら、もう何もできないのですよ。
 何に情熱を傾けようと、それにどう命を掛けようとそれは人様の自由ですけれど、死んでしまったら、もう何もできないのですよ。
 
 生きて、もっといろんな事を知って、いろんな人と知り合えば、きっと今はちっぽけで何も出来ない存在だと思っている自分でも何かができる。できるようになっていくんです。行き止まりだと思ってる人生だって、行き先が見えてくるんです。

 まだよく分からないのであれば、単純に3年前の自分を思い出してみてください。もっと思い出せるのならば5年前、10年前・・・。
 その頃の自分と、今の自分は違いますよね。

 と言う事は、単純に3年後、5年後、10年後の自分は違う自分になっているんです。違う世界が広がってるんです。
 
 何も他のみんなと同じ道を同じように通る必要なんてないんですよね。

 その 可能性 こそが 生きている ということの証なのです。本当に大切にすべきものなのです。
 自分を大切にしましょうよ。
 自分の未来を大切にしましょう。

 上手く行かない事の方が確かに多いですよ。悔しい思いすることもいっぱいあります。
 でもね、だからこそ上手く行った時に嬉しいんですよ。

 世の中はね、物凄く上手く行った人は褒め称えるけど、そうじゃなかった人には見向きもしないんです。それどころか失敗した人を批判の対象にしたりします。失敗しなかった多くの人は誰にも褒められもせず、批判もされず、ただそれが当たり前みたいな扱いを受けるものです。

 でもね、みんな他人との比較で自分を見られたくないでしょ?
 でも考えてみたら、自分自身をも他人との比較で見てしまってませんか?
 「勝ち組」とか「負け組」とか誰かが決めた枠組みなんて、どうでも良いんですよね。

 小さくても良いから 嬉しい気持ち を探しましょうよ。
 もっと、大切にしましょうよ。

 自分が感じることが大切なんです。


 ※何が迷惑なものか!

 死んでしまったら直接的な原因を作った相手や周囲の人に 永遠の罪悪感 を背負わすだけですから。 あなたは一人で生きてるワケではないのですよ。 死ぬ事で相手のみならず、あなたを大事に思っている人までもを永遠に苦しめる事になるのです。

 大事に思ってくれる人がいない って思っていませんか?

 良く探してみましたか?
 
 相談に乗ってくれる人がいない。
 どうやって相談したら良いのか分からない。
 相談する事は恥ずかしい事だと思ってる。
 大人なんて信じられない。 

 そう思っていませんか?
 たとえ信じてなくても良い。

 「誰も自分のことなんて分かってくれない」って思ってるなら、それでも良い。

 親がダメなら一番、君が好きな親戚のオジサンでもオバサンでも、ネットの向こう側の人でも良い。ちょっと話をしてみてよ。
 君たちに手を差し伸べ続けている君たちの味方がきっといるから。
 
 誰にも迷惑を掛けたくない、自分が我慢してれば過ぎて行く・・・って思ってる君。
 たしかに いじめ は 集団でかかる病気 みたいな部分もあるだろうから、時間が過ぎれば収まる場合もあるよね。
 
 でもね、誰かに傷つけられたり、自分の気持ちの行き場が無くなったりするほど追い詰められたりしたら・・・もうダメだって言うほど我慢してきたなら・・・誰かに助けてもらおうよ。

 一人で抱え込んで、若いうちに世の中に絶望してしまって人生の暗い影ばかりを見ながら生きて行くのも、自分の心を殺すということだよ。

 そうなってしまうことが、君を支える多くの人にとっては一番悲しい事だよ。面倒くさい問題だからといって、誰かが迷惑そうな顔をしたからといって、諦めないで。

 仲間は必ずいるから。
 味方は必ずいるから。
 
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2006/11/22 Wed  05:36:15» E d i t
 » 負けんな若者! 2006③ 
●子供の頃、自分の世界は狭かった。

 私が育ってきた環境は、両親と子供達で生活するという典型的な核家族でした。ただ、父親の実家が近所でしたし、母親の実家もさほど離れていなかったので、祖父母との往来は頻繁でした。

 ほとんどの場合、生まれてきて最初にできる世界は「家族」でしょう。
 
 次に両親、祖父母、あるいは親戚などの「縦の繋がり」と彼らの持っている友人や知り合い、近隣の人たちといった彼らの「横の繋がり」の世界へ組み込まれて行きます。
 
 やがて公園で遊ぶようになったり、幼稚園に行く頃には初めて誰かに組み込まれるのではない、自分自身が作り出す「横の繋がり」と呼べるような集団ができます。

 前項でも述べたように、人はその多くの繋がりの中で存在を肯定されたり、ある部分で否定し合ったりしながら自分という存在を確立して行くのだと思います。

 
 さて、私達が子供の頃、自分を取り囲んでいた世界の中に絶対的な自分の味方はどの辺に存在したのでしょうか?
 
 
 いじめられた時、相談できるような相手がどこにいたのでしょう?
 

 私の事を例に挙げるとするならば・・・

 

両親は弟や妹の世話に忙しそうにしてた。
 私は第一子なので、それを見て疎外感を感じていた。

 両親の血縁関係では従兄弟で自分より年上なのは、すべて女の子であり、私は初めての男孫だったので、必要以上に男女の差異を意識せざるを得ないような育ち方をした。ここでも疎外感を感じていた。

 両親も親戚もそんなつもりじゃないのは分かっている。
 自分が親になれば、そういうのも分かる。
 とはいえ、私は今にして思えば 疎外感 を感じてしまっていたのだ。これは事実なのだから仕方が無い。

 自分の目線まで降りてきて、その疎外感を共有してくれる大人が一人だけいた。私は、きっとその人に憧れて、その人のようになりたかった。
 滅多に会えない 東京のオジサン は幼少期の私にとっての ウルトラマン だった。
 
 でも、東京のオジサン への連絡手段なんて電話くらいしか無かったもの。しかも、通話料はバカみたいに高かった時代ですし、子供がおいそれと電話を使うような時代じゃなかったし。
 私の心が目指すべき方向を 東京のオジサン は示してくれたけれど、物理的距離からいって実生活に於いて緊急時に自分を助けてくれる存在とは言えなかった。

 
 
 大人の方ではきっといつでも「子供のための出撃準備」は整っているのだと思うのです。けれど、子供がそれに気付けずにいることが多いような気がするんですね。あるいは私みたいに 疎外感 ゆえに(完全にではないにせよ)周囲にに対して心を閉ざしてしまっている場合もある。

 「自分の殻に閉じこもってないで、オジサンに話してごらん」
 こんなこと言われても、他人においそれと話なんてできない子供でしたから。私は。多分、担任の先生に対してでも無理でした。
 
 「君はそう言うけれど、○×君はこう言っていたよ。××ちゃんに聞いてもこうだった。だから、君が言っていることは嘘だろう(完全否定)?」

 それを自分自身が言われた当事者でないにしろ、そういう会話を担任の先生が口にするところを目の当たりにしてしまったんですね。小学校3年生の頃。
 たとえそれが 大人側の正論 であったとしても、子供はほとんどの大人を信用しなくなります。
 だって、狭い世界にあっては 担任の先生 = 両親以外の大多数の大人代表 なのですから。
 

 「ああ、この人には何を言ってもダメだ。○×君と××ちゃんが可愛いだけなんだ」って、すぐ分かっちゃう。

 普段は良いこと言ってても、なんだ結局ソレかよ・・・ってね。
  




 例えば、現代なら「いじめ電話相談」みたいなのも「ネット相談」みたいなのもあるのでしょうけれど、アレは良いですよね。子供も大人もそうなのですけれど、本当は 裁きや対策を求めてるのではなく、自分の訴状を誰かに聞いて欲しい のですから。自分を肯定して欲しいのですから。
 であれば、相談員さんは自分の身の回りのややこしい人間関係を見ずに、自分の目線で考えてくれるのでありがたい存在ですよね。
 間違っても 「○×君はこう言っていたよ。××ちゃんに聞いてもこうだった。だから、君が言っていることは嘘だろう?」 なんて事は言わないし。
 聞いてもらえるだけで一安心する。
 その上で、誰かが一緒になって考えてくれるという安堵感だけで、新しい解決の道が自分で拓けたりする場合もありますものね。
 

 ただ・・・大人からの子供に対するそういった呼びかけはどこまで届いているのでしょうか?


 大人は新聞を読んだりニュースを見たりする中で、そういう情報をキャッチできる確率が高いですけど、いじめが問題となっている年頃の子供たちがそういうことをするでしょうか?
 私は、僭越ながら新聞と言うものに目を通す事を覚え始めたのは、高校生の頃ですけど?しかもスポーツ新聞のプロレス・芸能欄・・・もちろんネットなんてありませんでしたしね。


 それでも、手を差し伸べ続けるべきでしょう。
 それで救える命が、確実に、ある。


 ・・・ひとつの命を救うのは 無限の未来を救うこと・・・

 (え?はい。↑救急戦隊ゴーゴーファイブですよ。)

 
  私は いじめは絶対になくならない と前項で断言しました。


 では、なくならないのであれば具体的にせめて自分の身の回りの子供達を いじめ自殺 などの最悪のケースから遠ざけるために何が必要なのかを探っていきたいと思います。

 情熱を誰かに届ける方法は、きっとある。
 

   
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テーマ:大丈夫だから♪ - ジャンル:心と身体

2006/11/18 Sat  07:00:03» E d i t
 » 負けんな若者!2006② 
●人間は変わって行く。可能性の塊
 
 社会はいろんな人がいて成り立っています。
 誰しもが「ここが好きだ」「居心地良い」と思える場所で過ごせるわけではありません。
 学校もまた、社会の縮図です。

 私がこれまで生きてきて分かった事を先に書きます。

 大人であろうと、子供であろうと、いじめは無くなりません。
 
 これはもう、絶対的な真実です。
 自分がいて、他人がいる。私はアナタではない。
 私とアナタは違う。
 その差異をどうやって受け取るか・・・なのですよ。

 
 自分より凄い能力を持っている人・何かを成し遂げた人を羨ましく思う。
 そういう人に抱く感情は「憧憬(あこがれ)」もしくは「嫉妬(やきもち)」でしょう。

 一方で、自分よりも劣っている人を疎ましく思う。
 そういう人に抱く感情は「侮蔑(さげすみ)」もしくは「憐れみ(同情)」だと思います。


 自分が中心にいて、それを主軸として比較すべき他人がいる。
 若い頃の自分が何かに直面した時にどう感じ、何を思い、どうやって考えたのかを、年を経るごとに人は忘れていってしまうのです。

 マイナスの感情とされる自分の中のそれらの心の動きを認めて、始めて、そこから生まれてくる 尊敬 や 愛情 を享受できるのだと言う事も先に書いておきます。 


 
 例え話をします。

 自分がそれなりに勉強ができて、周囲の信頼を集めるような立場だったところに、ぶっちぎりで勉強ができて、スポーツ万能で、ルックスもイケメンな転校生が突如として現れ、周囲の視線もそっちに行ってしまう。
  「うお、コイツ、なまらスゲェ」(あこがれ)とか思いながらも「周りの奴ら、アイツを持ち上げやがって・・・面白くねえ」(やきもち)とか一方で思っている。

 ああ、私の経験ですとも。

 例えば、自分が体がそこそこ大きくて何となく社会人のラグビーでもレギュラーを取れる程度の能力を持ってて、たまたま合同練習に行った先の高校生を見て「ああ、残念だけどコイツは線も細いし怪我が多くて、さらに下手で全然ダメだな」(さげすみ)と思ってて、練習の度に怪我しちゃってて「可哀想だな。もうやめたら良いのに」(同情)とか思ってた。口に出して言わないけど、態度には出てしまってたと思う。

 ええ、私の経験ですとも。

 嫉妬するくらい憧れる人間とは、お互いの折り合いが付けば親友になる。友人を友人たらしめている根拠は、私は相互間の「尊敬」だと思っています。私と彼は考え方の方向性が似通っていたんです。嫉妬を超えて、話をしてみると、同じように悩んで、同じように感じていることに気付いたんですね。
 かくして、前者の“転校生”とは今でも親友です。

 一方、ラグビーの彼は・・・
 当時の私たちの彼に対する「腫れ物に触るような接し方」が悔しかったらしいですね。自分の好きなことをやっているのに、思うようにできない歯痒さをいつも感じていて、それを未来の自分への糧にしたんです。
 今や、私が所属してるチームなど眼中に入らないような強い社会人チームのキャプテンを立派に勤め上げています。
 
 今や、彼は私の憧れの対象ですから。 


 人間は誰でも自己中心主義には違いないのです。

 今は自分には手の届かない対象でも、10年後にはそこを超えられるかもしれない。今は明らかに自分より劣っているアイツも何年間か頑張り続ければ、自分を超えてしまうかもしれない。

 人間は可能性の塊なのです。

 そういうことに気付けない。
 気付けなかった時代が私にもある。
 そういう中で悩んできたから、この年になってこんなことを書けるようになったんです。



 ●自分の存在すら見失う時

 誰しもが、自分の存在を肯定して欲しいと願っています。
 それは本能と言えるのかもしれません。

 小さな子供を見てるとよく分かります。
 「おと~さん、コレ、見てー」
 「おか~さん、あのねー・・・」
 自分のやっていること、自分が思っていること、それを表現したい。
 そして、それに評価が欲しい。できれば褒めて欲しい。
 自分を確認するために。自分を肯定されるために。

 (それが長じて、私もここでこうして意見を述べているのですが)
 

 それも、大変厄介な事にそこに自分のほかに100人の人がいたとして「自分を肯定して欲しいたった1人」に肯定してもらわなければ、「残りの99人全員」が自分を肯定してくれていても満足できないようにできていると思えます。


 幾分哲学的な言い回しになりますが、自分以外の誰かに自分の存在を容認してもらってこそ 間柄的存在 としての自分の存在であることは真理なのですが、その自分の存在を自分自身が肯定できなければいつまでたっても迷路の中で迷い続けなければならないのだと思うのですよ。

 とはいえ、自分自身を見つめるだけの自我が発達していない時期の子供達にそれを言うのは酷であろうと思えます。いろんなことを経て、自分が自分自身を肯定して行けるようになるのが理想ではあるのですが、誰もがそこに至れるわけではないでしょう。


 
 う~ん。 自分で読んでても分かりにくい・・・

 例えば、こういうことです。学校時代にありがちな話で考えてみましょう。

 自分とすごく気の合う仲間達がいて、その仲間達がいるから自分は他のどんなことにも耐えていける。(自分という存在の肯定)(相手という存在の肯定
 
 でも、ある時何かがキッカケでケンカして収集がつかなくなって、その仲間と離れなければならなくなってしまう。(孤独・孤立

 場合によっては、自分以外の仲間が結託して自分を徹底的に無視しようとするかもしれない。(存在の黙殺=無視

 あるいは、相容れない考え方の排除対象として何らかの攻撃をしかけてくるかもしれない。(存在の否定=いじめ



 程度の大小はあっても、こういうことはきっと誰もが子供の頃から何度か経験してきたことでしょう。集団側、孤立側、どちらの経験も私もしてきました。

 ぶっちゃけ、クラスの大半が自分にとっては どうでもいい ただのクラスメート みたいな感じなのでそういうヤツらが何を言っていても大して気にもならないのですけど、自分にとって「心の拠り所」ともいえるような かけがえのない仲間 だと思っていたヤツらにそれをされると、一気に自分の居場所が無くなったように感じます。

 それまでの 自分の人生=過去 を全否定された上に、これからその人生の延長線上にあると思い込んでいた 昨日によく似たそれなりに過ごしやすい今日 が唐突に終わりを告げるのですから。

 
 誰も味方がいない。
 ひとりぼっち。
 学校という限られた世界の中、その年頃の子供達に「もっと周りを見なさい」と言ったところで、一体彼らがどれだけのことができるというのか。

 ここに分かれ道ができるんだと思います。

 ・集団に属していたいがために、相手におもねる。
 ・誰にも迷惑を掛けたくないから自分ひとりで抱え込む。
 ・親や教師、あるいは兄弟、べつの友達など、誰かに相談してみる。

 
   

 今、ことさらに問題になっている いじめ自殺問題 ですが、こんな風に言葉にして整理しなくても子供は本能的にこういうことを知っています。
 そんなことを誰も教えていなくても、集団で生活していれば能力の差異が見えてきて、いろんな感情が沸きあがってくるのは当然なのです。それが全て良い感情であろうはずもない。

 まだ、自我が確立しきっていない段階で、自分の存在肯定を他人との関係性にのみ依存しなければならない時期に、他人から存在を黙殺されること、否定される事の痛みは計り知れなかった。

 自分の存在を見失う時。
 子供にとってそれは、自分を肯定してくれる人が皆無のとき。
 皆無だと思い込んでしまうとき。


 子供の頃、自分の世界は・・・狭かった。
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2006/11/15 Wed  07:30:49» E d i t
 » 負けんな若者!2006 ① 
 長くなりそうだから久しぶりに分けて書きますじゃ。

 このブログ開設当初は若い衆も学生さんも訪問くださっていたのだけれど、最近ではとんと見かけなくなってしもうた・・・

 というか、学生さんはブログ更新もままならないのですかのぉ・・・

 
 マイペースを保ちたいなら周囲の人にはネット上の世界の存在を知らせない方が良いのじゃろうし、かといって、新しくネット上で自分の表現を見て、意見交換等のコミュニケーションを取ってくれる人を見つけるのも時間がかかるから、ついぞや手軽に友人を自分の表現の世界に招待する気持ちも分かるんですじゃ。
 
 クラスメートとかに自分の運営するブログやHPの存在を教えた瞬間から、日常と非日常の境目が無くなってしまうワケですからのぉ・・・書かれている内容に寄るじゃろうけど、それが原因で反感を買ったり、いじめが起こったりしてしまうことだって考えられてしまいますからのぉ・・・。

 まあ、たまに来てくれて読んでくれてるなら「元気だよ」とコメントでも入れてくださいな。


 さて、老人口調はこの辺にして本題に入ります。

 
 ●問題意識の流行。煽るマスコミ

 「いじめを苦にして自殺する」のが流行である。
 軽率に「流行」なんて言葉を使うと、反感を買うのだが、これは「流行」なのでしかたない。

 何年かに一度の割合で流行するのだ。若者の自殺は。
 自殺の理由は様々だ。
 世を憂う、先が見えない、全てに絶望した・・・

 誰かが自ら命を絶った事件の詳細が明るみに出ると、その詳細な方法に背中を押されるように・・・足を引っ張られるように・・・自殺に踏み出す若者が増える。
 加えて、最近のマスコミはひとつの事件を異常なほどに煽り立てる。

 世論は一様にマスコミに面白いように流される。

 
 一例をあげる。

 つい数ヶ月前には公務員が飲酒運転で死亡事故を起こして、たまたま犯人が公務員であったがために、飲酒運転の全国一斉取締りが行われたまでは当然なのだが、それで検挙された何万件ものうち、マスコミがこぞってモラルの問題として取り上げ続けたのは「公務員の飲酒運転」ばかりだったではないか。あたかも飲酒運転で検挙されるのは全て公務員であるかのような煽り方を平然とやってのけて、世論もまた「公僕たる公務員、税金使って何するものぞ!?」と憤慨していた節は見受けられた。で、今はどうですか?
 これから年末に向けて飲酒運転が増えるであろう時期、どこの新聞にももはや飲酒運転で検挙されましたという記事は見かけない。


 社会的な流行なのだ。
 問題意識の流行。
 
 学校でいじめがあって、自殺者が増えて、自殺予告文が文部科学大臣やら東京都知事に送られてきたり、遺書が公開されたり。

 これも、社会的な流行なのだ。
 半年もしたら、誰もが忘れてる。
 半年後にこの記事を見たら「ああ、そういや、そんな事もあったけなあ」とか思ってる。

 それがたまたま今「いじめを苦にした自殺」なのだ。

 今までも何度かこれが流行った時期があった。
 その都度、今と同じように「教育がどうだ」とか「システムがどうだ」「学校だ」「いや、親のしつけだ」と永遠に答えの出ない水掛議論が続いた末に、次の流行がやって来て世論の関心がそっちに向くと

 ・・・ま、いいか

 と、うやむやになってしまう。
 うやむやにしてるから、また数年後に同じようにこの手の問題が噴出してくる永劫回帰。まあ、答えなんて無いんだけどね。だから必然的にうやむやになるんだけどね。

 世間はそういうものです。誰かが見てないと本腰入れて問題解決に向かわない。それも、本腰入れてるフリしてるだけで、難しい言葉を並べて満足してて、現場じゃ何一つ変わっていない。
 変わっていないものを「改善」とは言わない。
 それを見て育つ子供が何かに本気になるはずがない。
 そういうことだと思いませんか?

 だから誰かに何かを期待しても何も変わらんのですよ。だからどうにかしたいなら自分で変えていくしかない。自分が変わるしかない。そういうことなのですよ。

 どうやって変わって行ったら良いのか分からないから、どこに変わって行ったら良いのか分からないから「仲間」が必要になるでしょう。それは同級生かもしれないし、両親かもしれない。こうしてネットで接する見たこともないオジサンかもしれない。
 あるいは、200年前のフランスの哲学者かも、それこそ世を憂いて自殺した詩人かもしれない。彼らは肉体はこの世に無くてもその魂は文献として世の中に残っているのですから、仲間になる事は可能なのです。

 仲間でいたいがために、他人への接し方を覚えるでしょう。
 本の読み方も変わってくるでしょう。
 
 ほら、そうなったら“変わった”って実感できるでしょう?
 それを積み重ねてるうちに、変わってくるんですよ。自分は。そうこうしているうちに仲間はいつの間にか増えている。

 「今できることをやって行く」というのはそういうことではないでしょうか?

 ●同調しやすいお年頃

 同調しやすい年頃というのは、私にもあった。
 その年頃に丁度流れている時代の流行が、私達の時代、私の身の回りにあった思想がたまたま「冷めた時代に いかにして生きるか」という物だっただけの話だ。
 
 死にたいと思ったことも一度ではないし、あの頃が今みたいな時代だったら今頃、こうしてこの世にはいなかったかもしれない。

 「自分がなりたいように変わってきた」という意識はもちろんあるけど、それがそうなれる時代や環境であったという幸運にも感謝している。


 そんな青春時代を送ってきた私が、命の大切さや、心のあり様をいくらここで叫んだ所で、今のこの時代に生きている若い人たちに届かないものは届かない。そんなの分かってる。でも、私は書く。

 今すぐ届かなくたっていい。

 ネットの世界に上げておけば、未来のどこかの時点で誰かが見てくれるかもしれない。
 これは日記帳にこっそり書いておくのとはワケが違う。電気が続いて、プロバイダーが継続していて、私がこの記事を削除しない限りはネットの世界に半永久的に存在し続ける文章なのだから。

 だから、いつか誰かに届けば良い
 
 届くかもしれない誰かに向けて、精一杯書く。
 それを受け取るのはもしかしたら、未来の自分かも、いつか自分を助けてくれる人かも、自分が守りたい人かもしれないのだし。
 
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テーマ:いじめ - ジャンル:ニュース

2006/11/06 Mon  05:57:37» E d i t
 » 予言~あるいは「恐怖新聞」 
 なんだか最近ホラー映画ブームの我が家なのです。

 ビデオを借りて来てもさほど見る暇もなく、ついうっかり一週間が過ぎてしまい見ないまま返してしまうなんていう意味の無い事を繰り返したりしちゃうのはなんでだろ~?

 あ、ウチだけですか?・・・そうですか。

 キャンペーンばかりやっている近所のレンタルビデオ屋の策略に真夏の夜の街灯に群がる虫たちのように面白いように引っ掛かる私たちです。
 ようするに、「半額」とか「100円」とかって言葉に弱すぎるので、生活リズムをかえりみることなく、本数を借りすぎてしまうのですよ。

 私も嫁さんも基本的に

 「流行に疎い」
 「特段、好きな俳優がいない」
 「好みのジャンルが多岐に渡る」

 という素晴らしい性質を持っているので、新作・話題作に興味がなくて、雑誌やテレビのレビューに関心さえ持ちませんし、レンタル店に行っても「え~?世の中じゃこんなに映画作ってんの~?」って思わざるを得ないほど有象無象のタイトルが列挙されてるワケで・・・ブログ巡りしてて出会う映画・ビデオの「口コミ(ブロコミ??)」情報は参考にさせてもらってます。いつもありがとうございます。

 はい。そんなんで(どんなんで?)我が家では周期的にジャンルブームが訪れます。
 アクション映画で面白いのがあったら、それっぽいのを探してきては見続ける。コメディ然り、ヒューマンドラマ然り。邦画・洋画問わず。
 
 今回訪れているのは一行目に書いたホラー映画ブームです。
 アメリカンスタイルのゾンビ・モンスター・スプラッタ系の有り得なさも良いんですけど、私は「リング」以降完全に復活を遂げた邦画ホラーの薄気味悪さが大好き。
 あの後味の悪さと、本当に来そうな感じがたまらなくです。

 その「嫌な感じ」がホラーのホラーたる所以。
 そんな中で、すごく嫌な映画に出会いましたのでご報告させていただきます。

 
予言 プレミアム・エディション 予言 プレミアム・エディション
三上博史 (2005/04/01)
ジェネオン エンタテインメント

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 運命が変えられるにしても、こんな変わり方はもう、まっぴらごめんですよ。散々様々な角度から絶望を味わった末に最終的に自分が身代わりになって「これで良かった」なんて言われても全然スッキリしませんから。

 そう。このスッキリしなさがまた日本の怪談の良い所(?)なんですよね。


 昔、本屋で立ち読みした「恐怖新聞」by.つのだじろう を思い出してしまいました。作中にも「恐怖新聞」という言葉が使われますから、まあリメークなのでしょうけれど。
 
 読むと100日寿命が縮まるという、身の回りに起こる不幸な事を予言した新聞「恐怖新聞」。読みたくなくてもちゃんと夜更けの窓辺とかにおあつらえ向けにくっ付いている「恐怖新聞」。
 
 スポーツ欄も充実!
 芸能記事もバッチリ!
 
 ・・・それは道新スポーツ・・・

恐怖新聞 (3) 恐怖新聞 (3)
つのだ じろう (1997/03)
秋田書店
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 嫌だったなあ・・・。
 立ち読みした日の夜、なかなか寝付けずに窓ばっかり見てたっけ。
 
 そんな日々を経て、今や「予言」を見ても何事もなかったかのようにぐっすり眠れる30歳になったのだよ。

 
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2006/11/01 Wed  05:46:11» E d i t
 プロレスリングNOAHでジュニアヘビー級(体重100kg以下の選手たち)の選手・丸藤正道(マルフジ・ナオミチ)がGHCヘビー級(同100kg以上の選手たち。100kg以上ならどこまでもヘビー級!)のベルトを秋山から奪取してから2度目の防衛戦。

 相手は丸藤の盟友・KENTA。

  

    丸藤:176cm・90kg。
   KENTA:173cm・80kg。


   参考)フクフク丸:180cm・85kg。

 数字を並べてみると、二人とも服を着て歩いてたらプロレスラーには見えないくらいの体格なのだが、リング上では体格なんてお構いなしにヘビー級の選手相手にも激しいプロレスを展開する。

 考えてみれば、日本人のヘビー級と呼ばれる選手たちが110kg前後なのに対し、一時期日本マット界を席巻した外国人レスラー達はハンセン・ブロディ辺りで130kg~140kg、ベイダー辺りだと180kgあったわけで、彼らと日本人のヘビー級レスラーが対等以上に渡り合ってきた歴史を考えると、体格差で結果を語るのはもしかしたら早計なのかもしれない。

 ただ、従来のプロレスファンが彼らがヘビー級のタイトルを持つということに激しい違和感を抱くのは紛れもなく体格に由来している。
 たとえ同じ体格差であったとしても、185cm・110kgの人はそこら辺にはいないのだが、丸藤クラスの人はそこら辺にウヨウヨいるのだ。
 私のようなずっと昔からのプロレスラー崇拝者には「見た目からプロレスラーたれ!」「レスラーとしての威圧感を出せ!」というなんとも凝り固まった意見の持ち主が多く、ジュニアヘビー級選手の階級を超えてくるような活躍に素直に賞賛を送れない部分も無きにしも非ずなのであるが、でもハッキリ言って凄かった。面白かった。そして強かった。

 
 丸藤はプロレスの申し子と称される。
 その運動神経や周囲を見渡す能力は彼らの世代ではダントツだろう。
 試合を支配しながらサプライズも提供できる。
 まさに天才。

 しかし、天才とて相手に恵まれなければ心に残る絵を残せない。

 GHC王者になる前、丸藤は「査定試合」として井上・菊地とそれぞれシングルマッチを行った。それなりに仕掛けのある井上雅夫に対しては面白い試合を組み立てることができたが、菊地毅との試合では途中で動かなくなる菊地、途中で燃え尽きる菊地を相手になんとも後味の悪い中途半端な試合をしてしまった。

 この菊地戦は天才・丸藤の中でこれからトラウマになっていくだろう。

 そこに来て、そのダメダメな菊地を見事に輝かせた選手がいる。
 秋山準。
 目まぐるしい攻防の末に丸め込まれて丸藤に王座を奪われ、元王者は第一試合からの出直しを宣言。
 そこにあの菊地毅がいた。

 今シリーズ、秋山は徹底的に菊地をいたぶった。いたぶりまくった。「俺が第一試合の意味を教えてやる!」と息巻きながらも途中で心のスタミナ切れで動かなくなる先輩・菊地に向けて「オイ!動かなくて良いのが第一試合なのかよ!?ふざけんなよ!」とリング上で声を荒げて菊地に膝蹴りを叩き込む秋山。

 そして組まれたシングル戦、秋山は見事に往年の火の玉小僧・菊地を蘇らせたのだ。
 
 秋山は菊地を媒介して、丸藤を挑発している。
 結果だけを追いかけているうちはなかなか気付けない、プロレスの味がこんなところに隠れていたりする。



 話を戻す。
 天才にはその領域に付いてくることのできる相手がいて、初めてその世界観を満天下に知らしめることができるのだ。
 でも、多くの人はそれにはついて来れない。当たり前だ。時代を飛び越えて扉の向こう側に行こうとしている天才と、時代に安住しようとしている凡人との意識の差は埋まるわけが無い。

 プロレスに於いてはそういう相手を向こうに回してもそれなりの試合運びをすることを要求される。しかし、空回りが続く場合は観客の背筋が凍りつくような強制終了(シュート)を見る側が無意識に要求しはじめる。

 この前、三沢がダメすぎた村上和成に仕掛けたアレである。ダメなヤツは遠慮なく潰さなければならないのである。思い通りの絵を描けなかったらグシャグシャに紙を丸めて捨ててしまうような思い切りの良さが求められる場合がある。
 では、丸藤にはカミソリのようなソレが感じられるか?
 確かに引き出しの奥の方には閉まってあるだろう。だが、丸藤の基本は「明るく・楽しく・驚くプロレス」だと感じる。

 激しさはあるにはあるのだが、キレイな、自分の思い通りに行かなくても一応は最後まで描いてみようという歯切れの悪さを感じる場面がまだ多い。天才であるが故の使命感なのだろうが、そこに観客との温度差が生じる場面だってあるということだ。

 
 その丸藤に欠けているように感じられる部分「激しさ」を補って余りあるのがKENTAのプロレスだ。

 
 身体は小さい。私よりも小さい。
 でも小さく見えない。なんなのだろう?あの馬鹿力は。威圧感は。

 トップロープから飛んでくる100kgの人間を空中で受け止めて自分の技に持って行く?140kgを担ぎ上げて放り投げる?
 自分よりもずっと体格もキャリアも大きな相手に向かってバコバコ顔面を殴り飛ばし、顔面を蹴り飛ばす!
 もちろんボロクタにやられるんだけど、その都度立ち上がってまた向かっていく。

 なんだろう。
 私たちがプロレスラーに求めている一方の姿の具現化とでもいうか。

 ファンは一般人には到底信じられない圧倒的な強さを誇示するという姿を求めながらも、叩き潰されても徹底的に立ち向かって行く姿も求めている。

 KENTAのやっている技は蹴りやパンチを中心に、立ち技格闘技の技をアレンジしたものが多いが、戦い方の姿勢「何度倒されても倒されても立ち上がってやり返す」は、私たちが陶酔したあの90年代小橋健太(現・建太)のハンセン・ゴディ・スパイビー・ウィリアムスに向かっていった姿そのものではないだろうか?

 当時も全日本プロレスには三沢という天才がいて、小橋と言う超努力型のレスラーがいた。
 その間に川田という冷酷型、田上という気まぐれ大天才型のレスラーがいて、完全に色分けされた日本人トップ4が織り成す極限的、幻想的な世界観がジャンボ鶴田と天龍源一郎の世界観を継承・拡大した末に覆い尽くしたのであって、三沢ひとりでは絶対に成し得なかった世代交代なのだ。


 丸藤の実直サプライズプロレス vs KENTAのバキバキ破天荒プロレス

 私は比較したらKENTAのプロレスが好きです。それ以上に杉浦の火事場のクソ力全開プロレスが好きなのですが。

 丸藤-KENTAのGHC戦。
 


・珍しく丸藤が自分の仕掛けたケブラーダで場外鉄柵に喉を痛打&伸び切らない足がKENTAの額を直撃!
 ・エプロンから場外へのKENTAのファルコンアロー→KENTA、場外へのスワンダイブ式フットスタンプ!!
 ・不知火を仕掛けようとトップロープに駆け上った丸藤の背中を押して、そのまま場外へ投げ出したKENTA!!
 ・四天王プロレスさながら・・・しかし異常に急角度のスープレックス合戦!!!
 ・トップロープからのKENTAのタイガースープレックス!!!
 ・KENTA以外に決まったのを見たことない丸藤の不知火・改!!!



 印象に残り過ぎ。
 この試合、結果的には丸藤の新技「ポールシフト(リストクラッチフィッシャーマンズバスター)」で丸藤が二度目の防衛に成功したわけだが、印象に残ったのはKENTAだった。

 「間」の少ない、出し惜しみの無いハイスパートな大技の攻防がこれだけ続くと、観客も途中からアドレナリンが出まくって何がなんだか分からなくなってしまう!

 凄いよ!この二人。
 この二人は確実に時代の向こう側に行っている!!

 こんな凄いプロレス見せちゃって・・・この黄金カードは、もう、この先が予想もできない!!
 黄金カードの宿命。前回の試合を塗り替えるインパクトを常に要求される。しかも、彼らは自分たちだけではなくて先人達の試合とも比較されてしまうのだ!!

 もう、この先が見えない!
 
 そういう感覚にさせてくれる試合に出会えて、嬉しい!!



 私は四天王時代真っ只中のプロレスファンである。
 リング上の世代交代期にはゆっくりとファンの世代交代も行われていくのだ。
 さあ、若きプロレスファンたちよ、私たちと語り合おう。
 そして、プロレスファンである事に胸を張ろう!

 プロレスは面白い!!プロレスは熱い!!プロレス最高!!

 ああ、これを言わせてくれる丸藤・KENTAが大好きだぁぁぁ!!!

 同世代の選手達、頑張れ~、モリシ・リキ~ヨネ~、置いてかれてしまうぞ~負けんな~潮崎~、コタロー!更に塗り替えろ~!!
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