フクフク丸のあずましいblog
あずましい=快適、すごしやすい  アナタの「心の元気」を引き出す   「漢方薬」に私はなりたい。
03 « 2017 / 03 » 04
 1. 2. 3. 4. 5. 6. 7. 8. 9. 10. 11. 12. 13. 14. 15. 16. 17. 18. 19. 20. 21. 22. 23. 24. 25. 26. 27. 28. 29. 30. 31.
--/--/-- --  --:--:--» E d i t
 » スポンサーサイト 
上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
スポンサー広告 *  TB: --  *  CM: --

top △ 
2012/02/08 Wed  18:02:32» E d i t
 聞いた話によればどうやら2012年というのは人類にとってターニングポイントだと言うではありませんか。



 宇宙人が人類の前に姿を現すとか、人類が滅亡するとか、マヤの予言がどうだとかこうだとか私が大好きなトンデモ情報が「2012年」というのをひとつのキーワードのように語っている辺りが興味深いですね。実際に、予言や終末観が大好きな我が国では実際にその引き金ともなり得るような天変地異や自制の利かない文明進歩がもたらした人災が発生し続け、人々の心も疲れ果てていますからそういう話にすがりたくなる気持ちは良く分かります。


 すがってるんですよ。


 この先、明るい未来を思い描くことができませんから「どーせなら終わっちゃわないかなー」って考えて。しかも「どーせ終わるんなら思いっきりドラマチックで、誰も言い訳不可能、説明不可能な終末が来ないかなー」って。
 例えば我が国で言えば経済が破綻して思いっきりド貧乏になって餓死者が出たり病気が蔓延してしまったり、お隣の国の政情不安が飛び火して来て国土が戦場と化してたくさんの人たちが犠牲になったりという、現実的に起こり得ることには目を向けません。

 だって、あまりにもリアル過ぎて怖いから。
 

 だから、現実逃避なんですよ。それでも2012年というキーワードはずっと前から提示されていたものですし、それに向かって人類が跋扈する世界の方は明らかに破滅の方向に向かって来たことは疑いようのない事実ですから、それを懲らしめるために「神様」とか「宇宙人」が登場して欲しいと願うのは、怪獣が暴れ回っているからウルトラマンに出て来て欲しいと願うのと同じことです。ただ「怪獣」が自分たちと同類の「人類」だったというだけの話で。

 どこかで誰かにブレーキを掛けて欲しい。
 でも「誰か」がどこかで踏み込んだアクセルを離さない。
 アクセルを離してスローダウンした世界も想像できない。
 だから自分もアクセルを離せない。
 自分だけはいつでもアクセルを離せると思い込んでいる。
 なのにいつの間にか踏み込んだアクセルが足を離しても戻って来ない。

 どこかでアクセルを離さない「誰か」が「自分」だとみんな実は気が付いている。


 さて、「その状態で大きなカーブに突っ込むよ」というのが今の時代の正体でしょう。
 見通しの良い直線道路は終了。

 
 どうなる?
 上手く曲がりきったとしても先は見えない。

 ブレーキ掛けてゆっくり曲がってもその先の道がどうなってるかなんて分からない。

 いっそフルスピードでカーブに突っ込んで一か八かドリフトでも掛かればタイヤはまた擦り減るけどこのコーナーはやり過ごせるか。路外に逸脱して大炎上するか、意外にも逸脱した先に誰も見たことのない新しいコースが広がっているのかもしれない。


 カーブ突入は避けようのない事実。
 幾ら目を逸らしても事実。だから、目を逸らす。

 言い訳不可能なくらい、説明不可能なくらいの「神風」でも吹かないだろうかと。


 
 そんなもん、吹きませんよ。
 人類が滅ぶような事は起こらない。起こってくれない。


 昨年、東北地方を襲ったあの大地震、大津波。
 それを延々とテレビ画面を通して見続けていた日本。無力感。脱力感。全てにおいて圧倒された。
 原発事故。不安。絶望。戸惑い。誰も真実を伝えない、何も信じられないことの再確認。

 生きる希望と力強さという表面的な報道と、冷酷すぎるほどシビアな現実。


 
 私たちはみんな、たくさんの事を一気に経験したのです。
 そして、私はひとつの答えを先日見ていたDVDのセリフの中に見つけました。


 「私、中の下じゃないですか。だから、頑張るしかないんですよ。頑張るしかないんだよ。」
  (『川の底からこんにちは』木村佐和子:満島ひかり)
 
 
 ・・・・・・・・・・・・・・・ 

 私、頑張るの嫌いです。
 背伸びなんて大嫌いだ。面倒臭いことは増えて来るし、今までしなくて良いことしなきゃならなくなるなんて嫌だ。


 でもね、やりますよ。
 頑張るなんて言葉は嫌いだ。なんて余裕かましてる場面じゃないですから。
 だから頑張る。

 私が頑張るからあんたも頑張れなんて言わないですよ。
 私は私のために勝手に頑張って行くだけです。

 
 「明日 世界の終わりが来ても ダンスナンバーで 踊り続けよう」(ダンスナンバー)
 「見て来たことや 聞いたこと 今まで覚えた全部 でたらめだったら面白い」(情熱の薔薇)
 「ドブネズミみたいに美しくなりたい」(リンダリンダ)


 なぜか、ブルーハーツのあれやこれやが胸に去来するこの頃なのです。
 生きるために必死になる姿は汚くて、臭い。でもそれが美しい姿なのだとそういう思いをもう一度思い出さなきゃならないだろ。
 

 ・・・・・・・・・
 

 いろいろ考えるのですよ。
 「UFOって“未確認飛行物体”だからUFOなんだよね。じゃあ、フツーに確認された後はただの“飛行物体”すなわちFOになるのかな~」とか「長年に渡って全人類のファンタジーであり続ける宇宙人が姿を現す時が来るとして、その目撃者になれるんだったらそれはラッキー」とか。



 そんな自分と、あんな自分が混ざり合いながら今日も私は鼻歌を歌いながら生きてます。
 
 

 
スポンサーサイト
2011/04/06 Wed  16:19:49» E d i t
 »  
 私たちが子どもだった頃、大人たちはいつも笑っていた気がする。
 困ったり、泣いたりしながら、それでも笑っていた気がする。表情があった。


 「何もない」 から 「いろいろある」 の時代へ向かって突っ走ってた時代だったから。
 「何もない」 と 「いろいろある」 がほどよく混ざり合っていたのが、私たちの子どもの頃だったのだろう。
  豊かさは余裕を生み出し、「いろいろある」 時代はさらに 「なんでも有り過ぎる」 時代になった。



 なんでも有り過ぎて維持することさえままならないのに、次から次へと新しい物が出て来ては消えて行く。便利さを追い求めて人々はそれに群がりながら、さらに便利なものが出て来ると今度はそっちに群がりながら、振り回されるにいいだけ振り回されて、便利を手にするために気忙しく働きまわって、便利に居場所を奪われて表情が消えて、ふと気がつけば便利だけど豊かじゃないような感覚になった。


 今、大人になった私たちはいつも何かに追われるように眉間にしわを寄せている。
 豊かになったはずなのにさらなる豊かさや便利さを追求して、あくせくしている。
 あくせくしていることが充実なのだと言う人もいる。

 あくせくしていても、その対価として何かを得られて初めての充実だと私は思う。

 あくせくしているだけでどこにも辿り着けていないというのが現状だと思う。
 それどころか、どこに向かっているのかさえも分からなくなってしまった。
 
  
 

  「困ったように笑いながら ずっと迷ってる人がいる」


 
 数年前の大ヒット曲「世界にひとつだけの花」の2番の歌い出しの歌詞。


 歌詞全体を見た時にはその人は、花屋さんで色とりどりに咲いた花の中でどの花を選ぼうか迷っているという設定なのだが、単純に今の大人は「困ったように笑いながら ずっと迷ってる」と思う。



 
 そして、いろんな表情がないまぜになったような、それでいてどの感情にもあてはまらないようなその困ったように笑っている顔と言って思い浮かんだのが、純。



 
 「北の国から」の純



 私たちはきっと今、自分の笑顔を鏡で見たら純みたいな顔で哀しそうに笑っているだろう。
 自分たち自身がどこへ向かうのか分からない不安の真っただ中にいながら、それでも誰かを・・・自分を安心させようとしてむりやり笑ってる笑い方。



 北の国から というドラマを別に好きだったワケでは無いけど、純の笑顔はいつでも困った顔なのはちゃんと知っている。そして純はその後、他のドラマに出演しても純で、困ったように笑っている。


 
 あの顔だ。
 おそらく、今、この時代の大人たちはあの顔で笑っている。
 それを見て、子供たちはどう感じて育って行くだろう。

 

 我慢しなくていいと言われても、別に我慢してるワケでもない。

 急激な変化の中で不満と諦めは鬱積するばかりで、本来であればそれをぶつけるべき政治や社会にさえ愛想を尽かしてしまっていて、ぶつけどころが見当たらないというだけなんだ。
 
 
 いつか、本気で笑いたいよね。
  
 
 
2010/11/02 Tue  08:42:35» E d i t
 » ちゃんちゃらおかしいぜ! 
 「成功には原理・原則があるのです。」
 「そのノウハウで人生の成功をお手伝いするのが私の仕事です。」

 先日、仕事が終わってから会社に喪黒福造のようなセールスマンが私のところへやって来た。


 
 私は常に思っている。成功への原理・原則というものは存在する!と。


 しかし、それと同時に確信している。それを使いこなせなければただの金と時間の浪費以上のリスクがあると。


 
 だって、普通に考えておかしいだろ。
 例えば20世紀の中ごろにアメリカで考案されて、それが研究に研究を重ねられて日本にもかなりの顧客がいるとか言っていたし、誰もが知ってそうな体験者の具体名も何人か挙げていたけれども、じゃあ、その「原理・原則」とやらが「かなりの顧客」に行き渡ってるのに、世の中は良くなってるように感じないのはなぜか?


 
 「かなりの顧客」が目標とする「成功」とやらが、決して世の中を良くする方向性に向かっていないという証拠なのか、あるいは、そもそもが原理・原則とやらが活躍することで本来ならばもっともっと酷い状況になるはずだったものが、ギリギリ今の状態でどうにかこうにか踏ん張っていられるのか・・・



 意地悪な私は、喪黒さんの話を黙って聞いていた。
 この手のセールスマンは、黙ってると困惑する。
 「これはあなたの成功を約束する夢のようなツールなんですよ」というセールストークも空回りを始める。



 で、私はこんなことを考えている・・・


 みんな子供の頃に気付いたはずなんだ。「ドラえもんのポケットはとりあえず、自分には存在しない」って。ものすごく憧れるけれども、あったら良いなって思うけれども、やっぱり自分には、ない。無い物は無いのだ。

 ドラえもんの例は大袈裟だとしても「あんなこといいな、できたらいいな」って思うことはきっと誰にでもあったはずで、ドラえもんがいないって分かって諦めちゃうのか、自分の力で叶えようと努力して行くのかによって人生は変わって来ると思う。

 恐らくは、後者の「自分の力で叶えようとして努力して」る人、あるいは周囲の目から見てもがいている人にこそ喪黒さんが付け込む「ココロの隙間」があるのだろう。努力してる人は必ず失敗を経験する。努力は成功の確率を高めるだけであって、必ずしもその人に対して成功を約束はしない。
 できれば人間は失敗なんかしたくない。失敗の対義語として「成功」があるのであれば、成功を手にするための原理・原則というものが存在してもおかしくはないし、それを手にしたいという願望だって私にはある。


 しかし、それと同時に「そんなもんいらねぇよ。仲間と協力して人の世の中で自分らで探して生きますから」という怒りに似たような感覚が常にある。成功なんてひとり占めしたって面白くも何ともないから。

 
  
 例えば、最近流行りの「コーチング」。

 
 生活から「対話」が失われた時代の「心の訓練」や目的達成の実践理論としては素晴らしいと思う。願望を実現させて行く経路を明らかにして、ステップバイステップで目標を目指し、目的へ向かって行くという方法論は実に分かりやすい原理・原則だと思う。
 これは私が680円の文庫本で得た知識だが、コーチングの講習会だとかセミナーだとかで高い金を払ってまでそれを欲しいとは思わないのだ。
 そのスキルというのは確かにたくさんの業種に役立つだろうし、人格形成に影響を及ぼすだろうけれども、本当に何か変わるとしたらその実践を通してであり、実践すべき内容を書いた本なんて文庫になりゃ680円、古本屋に行けば100円で買えちゃうことだ。
 

 要するに、最安値100円で買えちゃうことがチープに思えてついつい馬鹿にしちゃう心理を上手くついて、いかにも高尚そうに高い値段をつけてそのノウハウを売り物にする。中身は同じ。でも本だけじゃなくて、喪黒グループからの懇切丁寧な指導やセミナーも付いて来るからちょっと違う。もしかしたら同じような志を持って参加してる仲間を見つけられるかもしれない。見つけられないかもしれない。
 こんなに親切に教えてあげているのに、何も変わらない?いえいえ、変わってますとも。アナタの財布、軽くなったでしょ??アナタが望むような結果が出ないのは実践しないアナタのせい(笑)。あらら残念。実践してないでしょ?してないからできないのですよ。


 それが喪黒さんたちの「成功の原理・原則」なんだろ。
 ちゃんちゃらおかしいぜ!



 
 喪黒さんは遂に黙り込む。

 お互いに黙って時間は過ぎる。その過ぎた時間に家に帰っていれば子供たちと遊べたであろう、風呂に入れたであろう、大切な時間が過ぎて行く。それらを経過して、さらに子供たちを寝かしつけて借りて来た松田優作のドラマのDVDでも見られたであろう大切な時間が過ぎて行く。

 私は追い打ちを掛けるようにこう質問する。
 「あなたが売りに来たそのノウハウは一体、おいくらで、それをすることで私はどう変わるのですか?」と。


 結局、喪黒さんは彼が引き出そうとしていたいくつかの言葉を、私から引き出すことができずに、さらに一番言われたくない言葉をつつき出してしまった末に退散したのだった。




 そして、私はもったいない時間の中でも色々と改めて考えが整理されて、ちゃんちゃらおかしい時間はまんざらでもない時間へと良い塩梅に自分の脳内で化学変化させたのだった。



 
 ごくろうさん。


 
2010/05/24 Mon  06:08:34» E d i t
 » 上から 
 誰からも嫌われたくないのは良~く分かるんだけど、それでは人の上に立つ器では無いのだ。



 「申し訳ない」と頭を下げれば相手の気持ちが収まるワケじゃない。
 よく人々が「誠意」だ「気持ち」だと言うけれど、じゃあ一体、全員が満場一致で納得するような答えなんてどこあるっていうのだ。

 都合を押しつけざるを得ない場合だってある。自分でできないことなんだから仕方ない、自分が引き受けたくないことなんだから仕方ない。
 耳触りの良い約束を提示して、自分の目的達成の後にはそれを反故にせざるを得ないことだってある。理想に現実という土台が追いついていなかったのだから。



 「力が無さ過ぎる。」誰からもそう思われてしまった状態で人の上に立ちたくないのであれば、金でも権力でも何でも使って、支持率の低下をさも当然のように発表し続けるマスコミをもう少したらし込んで糾弾を緩めてもらうとか、それらの雑音を意に介さず、当初のマニュフェストをどんどん実行して一旦どん底見るとか、とにかく力量を見せつける必要がある。

 
 一般国民に「小物」扱いされている人物が宰相であることは、国にとってこの上なく危険なことである。
 
 
 友愛の真の実現のために、ひしめき合うあちらこちらの勢力・圧力が大多数の危険を孕みながらかろうじてバランスを取った状態の社会に自分たちが生活しているのだという「当たり前の大前提」をその大きな両目でしっかりと捉えなおし、友であり愛し愛されるためにはまずは強くあらねばならぬということに気付いて欲しい。

 頭を下げ、笑顔でへつらうだけならば「友」ではなくて「奴隷」だ。

 

 マスコミの煽り方も、報道の姿勢もすでに民主党をなめきってしまっている。
 なぜか?

 国政にとって小さな問題でも一人の政治家としてダークなイメージが残ってしまうような問題が起こるたびにいちいち詳細に弁明しようとするからだ。さらに謝罪しようとするからだ。
 
 もっと「上から」の物の見方、考え方、言動、力の使い方をしっかりお勉強しなおした方が良い。
 

 法の下の平等はあっても、「社会」はすべからく平等ではないのだから。
 で、そこら辺にごしゃまんといらっしゃる評論家のオッサン・オバサンが代わりにその仕事をできるかと言えば、絶対無理なんだから。

 選ばれてそのポジションを任せられているんだから。

 私たちは多数決の世の中で彼らを選んだのは他ならぬ自分たちなのだから、ダメなもんはダメだと選挙で意思表示すりゃ良い。スポーツで有名な誰それが選挙に出るとかいうくだらん話題に左右されずちゃんと自分たちの目で見極める努力をしないと、こんな荒れる世界の大海原にボロ船でかろうじて浮かんでいるようなこの国の舵取り役に誰からも軽蔑されてしまうような人を就かせてしまうようなことになってしまうということを、もっと危機感を持って実感すべきだ。

 そして、この衆愚の後には反動で必ず独裁者が登場するということも歴史に学んでおくと良い。
 
 
  

  
2010/02/06 Sat  17:55:32» E d i t
 » アウトサイダーの魅力 
 剛腕でなければそれは通用しない。
 
 なにも腕力に限ったことではない、権力、財力、知力・・・とにかく、何かに突出した部分が無ければできることじゃない。そして、それはたくさんの凡人たちには到底届きそうもないものだ。それが骨身にしみて分かっているからこそ、数に頼んでバッシングして、彼らよりも上に立った気分を味わって自分を慰め、満足してすぐ忘れる。

 彼らはバッシングに真っ向から立ち向かったりしない。時間の経過が大概の事は水に流してしまうことをちゃんと理解している。理解するだけ叩かれ慣れている。さらに、そんなもんに構ってる暇もなければ自分に対する評価なんて一向に気にしていない。ただ、自分がやるべきことは他の誰にもできないことで、それを既存のルールを曲げてでもやってのけることによって周囲に一目置かれる存在だから、周囲が勝手に自分たちの見本になって欲しいとか清廉潔白であって欲しいと理想像を押しつけているだけなのだ。

 あいつも人間。俺も人間。

 叩かれても叩かれても平然として、自分がすべきことをし続ける。
 本当は全然、平然となんてしてないんだけど、何というか、人に見られる所でそういう態度を崩さない。

 
 「僕たち弱い人間は、力を合わせて社会を作り、力を合わせて生きて行くのだから、ルールは守らなきゃならないよ。」それは、大多数の弱い人間の考え方である。技量が無いから制限速度以下で運転する。それが事故の確率を下げる最大の防御であり、これが常識だ。

 強い人間は技量があって、腕力も長けているから弱い人間の集合体をひとりで脅かすほどのエネルギーを発揮する。当然、普通の人から見れば危険に見えるような冒険をして対向車線にはみ出しても、赤信号を無視してでもぶっちぎるが、他人の何倍も動き回る。何倍も結果を出す。

 社会のはみ出し者とはそういうものだ。非常識極まりない。

 要するに「社会人」失格なのだ。
 
 それでも事故を起こさず、誰よりも成果を上げている間は苦々しい顔をされながらも社会から容認される。それどころか、尊敬や憧れの眼差しでさえ見られる。そして、技量に乏しい大多数の弱い人間の中から、彼らの目立つ部分だけを真似するような者も出て来ると当然、それらの贋物たちは技量に乏しいから事故を起こし始める。そして「社会」はアウトサイダーの存在というか、彼の行動に関して容認と拒絶の中間で揺れ動き、拒絶派は自分たちの意見を決定づける事件を手ぐすね引いて待ち望み始める。

 全くもってヒマな社会だ。
 だが、誰かがそれをやらなければ社会は社会として成り立たなくなってしまうということもまた事実である。

 誰かが猫の首に鈴をつけに行かねばならないから、そのキッカケ探しに重箱の隅をつつくような真似をさえ始めるようになる。

 社会を前進させる能力は本来であれば歓迎すべきことではあるが、それが卓抜された技量を持った少人数によって為されることや、彼らがブレーキが利かないほどのスピード感で物事を変化させて行くことに社会は本能的にブレーキを掛けることになっているのだろう。

 おそらくは、そうすることが時代の要請なのだろうが、それにブレーキを掛ける世論を作り出すのはいつだって前時代の遺物と化している既存勢力だ。そして、社会はそれになびくようになっている。なぜなら、今を形作っているのは過去なのだから。そして、その過去に於いては、現在の既存勢力はアウトサイダーであり、改革者であり、勝利者だったのだ。

 
 私にとってアウトサイダーは永遠の憧れであるが、自分は社会の一員だと自認している。

 あれは「なれ」と言われてなれるものではない。


 某政治家にも、某元横綱にも、尊敬と憧れを込めて自らの野心の礎として血肉にしたいと考えている。


上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。