- 2011/11/24 やさしすぎた大男
- 2011/03/30 希望
- 2010/08/30 訃報。山本小鉄逝去
- 2010/06/04 躊躇を突き抜ける狂気
- 2010/05/04 プロレスの居場所
同程度の運動神経の仲間と相撲を取った場合には身長と体重の分、ちょっと有利かな程度のところが関の山なのだ。そういう子供がジャイアンのように育つ場合もあるが、基本的には体格差を利用してケンカなどをした結果、相手の攻撃がからっきし効かない上に予想以上に相手を打ちのめしてしまったりして、その現実に自分で自分のサイドブレーキを引くような出来事がどこかで起こる。自分で気づいてどうしようもない感情が溢れて来てその場に立ち尽くして、打ちのめされて泣いている相手と一緒に泣くことによって自ら気付くのか、あるいはその状況を目撃した大人や他の友達にこっぴどく叱られたり諭されたり、時には集団で逆襲されたりして、仲良くやって行くには「この力は隠しておこう」ということになる。
だから、小さい頃にヤンチャだった子供がクラスでも身体が大きかった方だということは滅多にないはずだ。
基本的に、何かに向かって行くタイプというのは小さい子に多いと思う。判官びいきとは良く言ったもので、小さいものが大きいものに立ち向かって行く時、自然と小さいものの方に声援は集まるようになっている。たとえ大きい物のほうが言っている事が道理に叶っていたとしても、小さいヤツがガムシャラやってる方が声援は集めやすい。
私の場合、大きな身体は力の発散場所が運良く見つかりもせずに持て余され、「この力は隠しておこう」という頑丈な心の鍵のおかげでその能力を引きのばす機会にも恵まれず、果ては「宝の持ち腐れ」だの「ウドの大木」だのと散々な言われようをした。
そんな心無い言葉が耳に届くたびに「じゃあ、どうしたら良いんだよ?」という葛藤に苛まれることになる。
好き勝手やれば良いのに、悪者にされる事がイヤだから、いつも他人の目を伺いながらおっかなびっくり生きている。そんな感じ。それでもそういう物からはかなり解放されて来たとも思うけれども、やっぱりどこかであの時に掛けた鍵を言い訳にして、本気出したらこんなもんじゃないとか思ってる自分がいるのは事実だ。
三つ子の魂百までとは言うが、子供の頃に培われた性格の素地というものは大人になっても結局は続く物だと思う。
私はプロレスが好きで、つい先週もNOAHの「グローバルリーグ戦2011」を札幌に見に行って来たばかりなのだが、そのリングで戦っていた大型外国人レスラー、バイソン・スミスが昨日、プエルトリコにて急性心不全で亡くなった。
バイソンはつい最近、小川良成に必殺技・バイソンテニエルで不慮の怪我を負わせてしまい、その影響もあったかどうか戦績もいま一つと言った感じでリーグ戦最終戦のKENTA戦を迎えていた。
KENTAは軽量級(ジュニアヘビー級、83㎏!)の体でありながらNOAHという団体の改革の先頭に立ち、重量級(ヘビー級100㎏以上)の選手たちに混ざってリーグ戦に参加、スピードとテクニックを活かしつつもヘビー級に対してパワーで真っ向勝負もするタイプの選手で、優勝争いに最後まで絡む大活躍を見せていた。
バイソンは試合開始のゴングと同時に、必殺技の猛ラッシュを仕掛けKENTAを潰しに掛かる。
それはそれはもう、壮絶なパワー技のラッシュ。
アイアンクロースラムからのパワーボム、さらにバイソンテニエルと、次から次へと自らのフィニッシュホールドでKENTAを放り投げ、叩きつける。
しかしKENTAはギリギリで3カウントを許さない。
何度叩きつけただろうKENTAはグッタリしつつも3カウント寸前で返し続けて、ボロ雑巾のように場外に転がり落ちる。
バイソンはそれを追いかけ・・・ることなく、当惑した顔で客席を見まわしていた。
「ここでKENTAを潰して良いのかな?お客さんはKENTAが勝って決勝に行くことを望んでるのに、俺がここで勝っても良いのかな?お客さんはどんな反応してるかな?あぁ、やっぱりKENTA応援してるよ。俺が大技ラッシュしたのに引いちゃってるよ・・・やっちまったかなぁ・・・」
気持ちがやさしいのか、鈍臭いのか・・・バイソンは「怖いガイジンレスラー」になれなかったレスラーなのである。思えば、何度もこの手の「間の置き方と表情」でチャンスを逃して来た。観客にその微妙な仕草とか表情からレスラーの「本音」が伝わってしまうと、観客の方もバツが悪くなってしまう。本当ならばそのままの勢いで行けば“獲れた”試合、奪えたはずのチャンスもその優しさゆえに他人からもぎ取る事ができない。
「もぎ取っちゃったら、僕にはブーイングが飛んじゃうだろうな」という、悪者になりたくない、なりきれない感情が、巨躯を小さく委縮させる。
気付けばバイソンはNOAHの常連外国人レスラーでトップレスラーという位置づけにありながら、全くと言って良いほどプロレス以外、いや、NOAH以外のプロレスファンにも顔も名前も売れていないという状態に陥っていた。個性が売りのプロレス界において、良識派が滲み出ている物悲しさは私が感情移入するには十分すぎるキャラクターなのだ。
人の良さのにじみ出た、鈍臭い感じが何とも言えず私自身の置かれた状況にオーバーラップする。
気付けばバイソンを応援している自分がいた。
けれども案の定、KENTAを仕留めるためにアイアンクローに入ろうとしたところを変形腕固めを決められてGAMEOVER。大逆転のギブアップ負けを喫して、悲しげにリングを後にした。
私は、このバイソンスミスがいつか自分の殻を破って「怪物」になることを期待していた。誰の攻撃も寄せ付けない、片手で相手を弾き飛ばして放り投げてしまう、相手への声援や自分へのブーイングも全て自分の力に変えてただひたすら己の力量をまざまざと見せつける。そんな「怪物」になることを期待していた。
それだけの可能性とパワーと瞬発力とテクニックは持っていたし、何よりも真面目に日本のプロレスに取り組んでいた。そんなバイソンが能力を使いきれていないように見えて同情さえ感じた。まァ最も、出しきれない能力を含めてその人の実力なのだが。
個性が激しくぶつかり合うリングの上ではやさしすぎて、鈍臭くて、哀愁が漂っていて目立たなかった大男、バイソン。観客の期待値と、本人が勝手に解釈していた観客からの期待値と、本人がやりたいプロレスが、見事なほどにバラバラだったレスラー、バイソン。
当惑し、立ち尽くす姿が印象的だった珍しいレスラー、バイソン。
心からご冥福をお祈り申し上げます。
悲しみにくれる人たちの視線の位置は、どこだろう。
上を向いている人たちはいるだろうか。
「がんばっべ。」
って、声掛け合って、励まし合って、
頑張って頑張って、頑張って、気張って、気張って、ようやく視線をフラットに持って行ってると思います。
私は掛ける言葉が見当たらないのです。
何を言っても、何を伝えようとしても、今はムリだと。
励ましや同情の言葉よりも、少しでも多くの生活支援物資を少しでも多くの人たちに届けられることの方が最優先だと、私も、そう考えていました。
昨年、プロレス大賞でMVPに選ばれたNOAHの現GHCチャンピオンである杉浦の「プロレスで励ますなんて自己満足。本当に必要なのは水と食料」だという発言が週刊プロレスの記事になったのだそうです。・・・こちら、配送遅延でその記事はまだ読んでいませんが。
それに対して次期挑戦者として杉浦が対戦アピール中の鈴木みのるが、3人タッグマッチで杉浦を圧倒した上で吠えました。
「お前は(昨年のプロレス大賞の)MVPじゃねえのか? チャンピオンじゃねえのか? お前に『頑張れ、立て、杉浦!』って応援してくれた東北のファンを誰が救うんだよ!」nikkan sports.com
「雑誌とかで(指名後に)続けてお前が言った言葉を聞いて、俺は心底がっかりした。『今、プロレスで(被災地に)元気を与えるとか言っても、それは自己満足。必要なのは物資』ってお前は言ったな!? 確かに水や食いもんは必要だよ! でもそれはな、ほかのみんなが一生懸命届けようとしてるんだよ! お前、MVPなんだろ? お前、チャンピオンなんだろ? どうしたんだよ!? 杉浦。お前がプロレスの力を信じなくて、誰がプロレスの力を信じるんだよ!? 東北にだってプロレスファンはいっぱいいるんだ。そいつらにお前が与えられるのは、水じゃねーんだ、食いもんじゃねーんだ。プロレスだろ!? 俺は悲しいよ! 俺はマジで言ってるんだぞ!」
プロレスのリングは、屋外にも設置できます。
昼間なら、電気もほとんど使わずに興業を打てる可能性があります。
そしてそうした場合には、すべてのお客さんがリングを見上げる形になります。
杉浦は小さな体で大きな相手に真っ向勝負することで「希望」を表現し続けて来たからこそ、プロレス大賞のMVPを獲得することができたのだと思います。
今、心が痛むのは日本人として当たり前です。
苦しい思いを背負って立ち上がらなきゃ。歩き出さなきゃ。
「お前と俺がやらないで誰がやるんだよ!」鈴木みのるの言葉の真意は、おそらく・・・。
私は、思います。
たくさんの思いを背負って戦える。杉浦ならば。独りで戦ってるんじゃないんだよ。
希望というものは、私は、絶望や失望や諦めで埋め尽くされてしまった心の奥底で、自分にみつけてもらうのをじっと待っているものだと感じています。
でもね、それを覆い隠している絶望や失望や諦めを、ひとつずつ丁寧に数えてしまってうつむいた時に、ふと、無理やりにでも自分の視線を上げてくれるものって絶対に必要だと思うんです。
視線を上げたとき、心を覆い尽くしていた暗い雲に少しの光が射して、小さな希望という種が芽吹くという経験を、おそらく、みんな持っているはずなんですよ。
私はプロレスファンですから、レスラーが何度も絶対ムリだと思う状況から立ち上がり、ボロボロになりながらもなお相手に立ち向かう姿勢に勇気づけられて、その背中に自分の状況をオーバーラップさせて、立ち止まろうとする自分を奮い立たせてきました。
腹の底から声が枯れるまで応援するレスラーの名前と共に、自分にエールを送っている。
最終的に自分を奮い立たせて、次の一歩を歩ませるのは、間違いなく自分です。自分たちです。
けど、自分が辛い時や立ち止まろうとする時に励まし、勇気づけて、前を向かせてくれるのは・・・
やっぱ、励ましだったり、同情だったり、優しさだったり、誰かが何かに立ち向かって行く姿だったりするんですよね。誰かに力いっぱい送るエールは、それと同時に自分が自分に送るエールにもなっている。
だから、励まし合って行きましょう。
がんばろう。
希望は、きっと、みんながちょっとだけ上を向いてくれる時をずっと心の中で待っているから。
少しでも、少しでもそこに光が届くように祈ってます。
新日本プロレスのストロングスタイルという他に譲られざるポリシーを若手選手に植え込んで・・・と言うよりも文字通り「叩き込む」ことによって常に「強さ」に対して高い意識を持ち、プロレスが世間にナメられることのないような礼儀作法を徹底的に教育し続けて、新日本の黄金期を下支えした名コーチ。
私がプロレスを見始めた小学生の頃にはもうすでに現役は引退し、実況席で解説者として活躍していた。なので、レスラー山本小鉄を見た事はない。伝え聞くところによると、決して目立ったポジションではなく前座の鬼として若手の高き壁となり、実践で絞り上げて実力を磨き上げるのを得意としたレスラーらしい。
小鉄門下生の最後のひとりを自認する、現IWGP王者・真壁は「新日本の練習は育てて鍛える練習じゃなくて、やめさせるための練習」だとよくインタビューでそう言う。その礎を築いたのが猪木、小鉄であり強さを貪欲に求めるが故におのずから鍛錬は過酷さを増し、やがて伝説は一人歩きを始める。
「床に水たまりができるほどスクワット。背中の汗が乾いて塩が浮くほど腕立て伏せ」などは伝説の一例であり、毎日毎日自分の限界点を越えて行く事によって引き出される本当の「強さへの飢えや渇き」、それを満たして行けるほんの一握りの人間がプロレスラーとしてデビューでき、さらにその中のほんの一握りの人間がスターとして輝いて行く。
小鉄は道場ではコーチとして若手をしごき、リングサイドではその弟子たちにアドバイスを送り、常に厳しくあたたかく見守り続けることによってたくさんのスター選手をプロレス界に送り出した。厳しさと常に表裏一体の優しさがあればこそたくさんの人たちに愛され、慕われ、そして尊敬される人間であり続けることができたのだろう。
歴史の表舞台には華々しく登場しなくとも、華々しい歴史の裏側には常にそれを形作る種まき係、水やり係、が存在している。
目立たない役職だから誰もが敬遠したがるその役目を喜々として担い続け、決して手を抜くことなくやり続けてやがてたくさんの大輪の花を見事にその手で開花させた「鬼軍曹」山本小鉄。
その情熱的な生きざまを、深い愛を、それに対して男としての敬意をあらためて胸に刻み、ご冥福をお祈りいたします。
IWGPヘビー級タイトルマッチ「中邑vs真壁」がやっと放送されました。やっとと言うのは、プロレスファンであれば御存知かと思いますがこれ5月3日の試合なんですね。ちょこっと5月4日にその話題に触れて「プロレスの居場所」という記事を書きましたけれども、北海道での地上波放送は約一カ月遅れが当たり前になっております・・・。ええ。スカパーは相変わらず入れてません。・・・なんか踏ん切りつかなくて。
相変わらず、週刊誌やらスポーツ新聞、あとはプロレスファンの方々のブログなどでその状況や試合後のインタビューを活字で捉えて、脳内でイメージは完全に膨らんだ後で映像を見るという何ともちぐはぐな状況になるワケですが、他のスポーツだと結果が分かってしまったら見る気も失せてしまうところがプロレスや格闘技だと、技のつなぎや試合の流れ自体がすでにひとつの無形文化なので自分の目で見て改めて感じ入ることが多々あるので、情報の順番がどうとかはあまり気にせず見ている者です。いや、ホントは早く見たいけど。
真壁が遂にチャンピオンになった試合、良く良く見ているとテクニックとスピードで翻弄して行く中邑真輔とパワーで直線的に押して行く真壁刀義のプロレスは非常に噛み合わないんですよ。その噛み合わなさがまた新鮮だと言うか、妙な緊迫感を醸し出すんだな。それでいて両者共にブリッジや抑え込む時の体の使い方に神経が行き届いているから肝心なところが大味になること無く程良い緊迫感が描き出される。ところが、同じようにキレイなスープレックス(ハーフネルソン、タイガー)を放っても真輔の仕掛ける技に観客の反応は鈍く、真壁のそれ(ジャーマン、ドラゴン)には観客席が爆発する。この辺りにプロレスの勘所の違いが表れる。
真輔が最初から持っていた「生意気さ」を前面に押し出してナチュラルヒールという自然な立ち位置を手にしてから、観客の方も違和感なく真輔のプロレスを理解できるようになったと思う。棚橋がいる以上は真輔はどんなに頑張ってもその一足飛びな経歴が逆に重荷になってベビーフェイスは務まらない。また、凶器を使って試合をぶち壊すようなヒールと言うのも未来のエースとして成長中の今はやめて欲しい。だから観客が見ていて心地良いような試合の流れを寸断して突如試合を決めてしまうようなUWF系・・・それも藤原のようなレスラーを目指すと良いとずっと思っていた。今は高田+藤原のようなレスリングスタイルだが“格闘技アレルギー”が今なお残り続ける新日本プロレスでは丁度良いナチュラルヒールぶりだと思う。
一方で真壁はと言えば、すっかり観客を味方につけることができるレスラーへと変貌を遂げた。リング上はもとより、マイクパフォーマンスも週刊誌でのインタビューでもカッコつけてないで本気で本音を晒すような言葉の選び方ができるようになった結果だと思う。私はリング上でみせるプロレスの質やマイクパフォーマンスの内容に雲泥の差があるとは言え「涙のカリスマ」大仁田厚を想起する。体現して見せているのだ。真壁の人生そのものを。そして、虐げられし弱き物の叫びが伝わってくるからこそ、日常生活に抑圧されている社会人としての観客の心に響く。会場に行くまでは全然意識してないのにリング上の姿を見ていると自然と応援したくなるレスラーがいる。真壁はそれだ。真壁のプロレスは「我等の心の解放政策」なのだ。だから、プロレスファン以外の人にも響きやすい。
そして、暴走カリスマコング真壁が、遂に突き抜ける瞬間が来た。
真壁の雪崩式パワースラムで真輔の左肩に明らかに異常が発生。通常、ルールに則って行われるスポーツでは異常が発生した時点でその選手は交代や退場、あるいは試合が強制終了させられるシステムになっているが、プロレスでは「決着」が望まれる。他のどんな競技がどうであろうとプロレスは暗黙の了解でそういうものなのだ。
レフェリーもリングドクターも異常を察知して試合を止めるかどうか躊躇している。躊躇。この空気だ。試合はクライマックスを迎えている。観客の気持ちも昂ぶっている。しかし、選手の一人が続行可能かどうかギリギリの怪我をした。真輔も、真壁も、レフェリーも、おそらくあの場にいた全ての人たち、そしてそれを見ていたたくさんの人たちの心に「隙間」が生まれた。
プロレスはそれを超えなければならない。超えて行かねばならないのだ。
プロレスラーとしての「覚悟」を明示したのは真輔だった。脱臼した左肩を右腕で支えながら真壁に力無くキックを放つ。放つ。放つ。おそらく真輔が見せた底力はこれが初めてではない。IWGPに初挑戦した若かりし日、高山のヒザ蹴りを顔面に受けて明らかに異常をきたしている中で戦い続けたあの試合を思い出す。しかし左肩は古傷で、2007年のG1準決勝でも永田から同じように雪崩式のエクスプロイダーを受けて、さらにナガタロック、腕ひしぎ十字固めで脱臼という経緯があるから。あの時も真輔は立ち上がった。この男、止まらないッ。
そう、中邑真輔は止まらないッ!!
もはやあからさまに異常をきたしている部位を攻めようなんて、平常時の人間ならば思いもしないだろう。平和と安心に満ち満ちた生活を送っている私たちからすれば、怪我が発生した時点でレフェリーストップが採択される格闘技興行に慣れてしまった世代からすれば。
総合格闘技は無残で残酷であるがゆえに美しい。努力して来た物が吐き出される間もなく一瞬で勝負が決まることもある儚さが美しい。「酷」が残り続けるから残酷だ。
プロレスは「過酷」だ。無残や残酷の向こう側。「酷」を過ぎた場所に存在するのがプロレスだ。酷を越えて、結に向かわせる。その結にどのような色をつけるのか?それがプロレスなのだ。
しかし、プロレスのタイトルマッチでこの状況で「普通」でいたら、そのレスラーはもう一生掛かってもチャンスを掴むことはできないだろう。止まらない真輔を、受け止めて仕留める。それがその時点で真壁に課された使命。
ショルダーバスターから、美しいブリッジのドラゴンスープレックス!
直接、肩や首をダイレクトに狙った攻撃。
どう考えたって異常だ。しかし、異常であるが故に美しい。勝負とは非情なものだ。
真輔も乾坤一擲、左肩の痛みをこらえて真壁のラリアートをビクトル式の腕十字で捕獲するも、右腕一本では極めきれず、立ち上がった真壁に左肩を踏みにじられる。
ここまで魂を魅せ続ける真輔に凄味すら感じられる。
しかし、それをねじ伏せるために真壁が放ったのはうつ伏せにした真輔へのダイビングニー。
そして、とどめのキングコングニードロップ狙いでトップロープに上ったところに、執念で立ち上がろうとする真輔。その顔面~左肩向けて、ためらいもせず、叩きこんだッ!膝をッ!!!
何度でもふり絞り立ち上がろうとする真輔のプロレスラーとしての覚悟と心意気に対して躊躇なんていらない。真壁もとっくに決めていた覚悟だろう。相手が壊れようとも勝つ!勝って自分が全てを牽引する!!覚悟を越えた狂気さえも感じた。そう、狂気だ。プロレスは狂気なのだ。トップロープでためらいを見せたら真壁刀義は真壁伸也に戻ってしまっていただろう。“ためらいもせず”叩きこんだことが真壁を勝利へと導いたのだ。
感無量の真壁のインタビューがあったが、私は真壁というレスラーが頂点に立ち「本気」で世の中を変えて行こうとしていることに感銘を受けている。それと同時に、中邑真輔という大いなる未来に真壁という名の熱い心血が注がれたことで何が生まれて来るのかを非常に期待して見ている。
一見、水と油だが、真壁と真輔はとても良く似ている。
相手を倒すために狂気に突き抜けるプロレス。恐れを知り、その上で立ち向かうプロレス。何度でも立ち上がって喰らいつくプロレス。おそらくこれは「勇気」を体現している。勇気を忘れた時代に様々な物を私たちに問い掛ける、素晴らしい試合だった。
プロレスの幸せは、試合が終わった後に見た者の、感じた者の胸に去来するそれぞれの物語を味わうことの幸せである。
で、今日の日刊スポーツを読んでいたら、プロレス的には物凄く大きなタイトルの移動があったんです。真壁が中邑真輔を完膚なきまでに叩きのめして、苦節15年目にして遂にIWGPのベルトを奪取したんですね。試合に関してはまだ見ていないので詳細は例によって例の如く北海道では約一カ月遅れで放送される「ワールドプロレスリング」を観てから感想を書こうと思いますが、気になったことがありまして。
プロレスファンからすれば真のプロレスは間違いなくこの記事の方なんですよ。
真壁と言うレスラーにどんなドラマがあって、相手の真輔はこんな選手で・・・って説明しなければファン以外の方には届かないでしょう。説明したところで、興味が無ければ素通りする記事なのは良く分かります。
日刊スポーツには格闘技の記事を扱っている「BATTLE・バトル面」というコーナーがあって、その面でプロレスも扱われるワケなのですが、最近は特に扱いが少ないんですね。
今回の「真壁 初IWGP」の記事も、タイトルこそは大文字のタイトルが付いていますがモノクロ紙面の下段6分の1程度にしか掲載されていません。プロ野球の日本ハムがロッテに開幕から6連敗を喰らったという記事がにぎやかに飾り立てられて書かれているその下の方に目立たない感じでレイアウトされています。ちなみに昨日のNOAHのリーグ戦で高山が優勝した記事や鈴木みのるが三冠ベルトを奪取した記事に関してはさらにその半分程度の扱いで、写真も無いという扱いでした。
私が高校生の頃、インターネットなんてもちろん無かったワケですから朝刊が情報源だったんですね。朝は6時台の汽車(電車ではないのですよ汽車です)に乗って登校していたのですが、もちろんそれに乗るためにはさらに早い時間からの準備が必要になるので、当時、我が家に配達されていた日刊スポーツを待っていても間に合わないのでキヨスクで買うんです。
キヨスクで買うスポーツ新聞には配達用の新聞とは違ってエロ記事がエロ本とは別なまた独特の臭気を放っていて、活字で読むエロというのは・・・って、いやいや今日はそういう話題じゃなくて、当時はプロレスの記事が一面を飾ったりしていたんですよ。今では信じられないでしょうけれども、三冠の度にカラー写真一面ブチ抜きで熱い熱い記事が展開されていて、その記事に胸躍らせていた少年時代の私だったのですね。チャンピオンカーニバルとか、G1クライマックスとかの結果で一面をゲットすることさえもありましたからね。
そんな時代を経て来たので今回のこの寂寥感たるや筆舌に尽くしがたいものがあるのです。今では他の格闘技も話題になるくらい世間に認知されましたし、ネットもモバイルも発達したことや、他のスポーツで遼クンやら藍ちゃんやらの若い世代が大活躍していることもあってプロレスが文字通り隅に追いやられていることがたまらなく切ない。戦後、日本を熱くさせたのは野球と相撲とプロレスだったじゃないか!あぁプロレスよプロレスよ、おまえはどこへ飛んで行く・・・って、あぁ、今日は何かスゲェ脱線するなぁ。
その一方で、本日の芸能面の12分の1程度のスペースですが先日NOAHのリーグ戦を制した高山のカラーの写真が載っているではありませんか。なんか「いなかっぺ大将」のようなコスプレをした浅香光代と抱き合った写真が。何でも娯楽性を追求したプロレス新団体MAPの旗揚げ戦だったらしく、高山は浅香とプロレスで対戦したのだそうだ。
ユルい。
世の中は何でもアリで、激しさや真っ直ぐさが伝わらないのならば楽しさを伝えれば良いんじゃないだろうか?という心意気は良い。でも年齢的にも体力的にも、性別も何もかも・・・ボーダーラインは遂にここまで崩壊したのか・・・と思うと、そのユルさにさすがに呆れる。いやいや、ハッスルはそれでもエンターテイメントを追求しつつプロレスを「ファイティングオペラ」と表現した辺りで差別化していたし、何よりもインリン様という超切り札がプロレスに対して本気で取り組んでいたことで私は納得していた。しかし、浅香光代って・・・プロレスファンにしてみりゃリングと言うのは神聖な場所であって、選ばれた者しか立つことが許されない闘技場というイメージなんですよ。
大相撲がどんなに世間の非難を喰らっても「女性を土俵に上げないという伝統」をひたすら守ることで土俵のイメージを守っているのに近い感覚が、プロレスファンがリングに対して勝手に思い描いているイメージの中にはある。
そう。私なんかはプロレスラーに憧れ続けて、体を鍛えたりもしたけれどもそこに向かう一歩を踏み出すことができず、その勇気の無さゆえに未だに「ファン」であることに甘んじているので、あそこには一生入ることなんてできない、自分みたいな素人が入っちゃいけない場所なんだとすら思っているんですね。
ところが、浅香光代ですよ~・・・。
なんだそれ、「俺の方が高山と面白いプロレスできるよー」って思うでしょ。プロレスファンで、ちょこっとでもプロレス的な動きができる人ならきっと100人中120人がそう思うに決まってる。以前、引退した後の猪木がタッキーこと滝沢秀明とエキシビジョンみたいな試合をやった時にはタッキーの運動神経ならまぁいいかと思ったこの私でも、浅香光代はねぇだろ~って思いますよ。
世間的な知名度が高い人を利用してプロレスを宣伝しようとなると、こういうことになるんでしょうね。私らは浅香よりも面白いプロレスを提供できるけれども、観客はそんなものは求めていない。じゃあ何を求めているかと言えば「何が起こるか分からないから、何か新しい物が生まれるかもしれない」というワクワク感。
でもね、フツーに考えて、近所の爺さんと高校生がケンカしてるのはイメージできても、婆さんと40代のオッサンがケンカしてるのは絵ヅラ的に有り得ないじゃないですか。
まぁ、その有り得無さがウリなんだろうなぁ・・・
これが、浅香光代vs野村沙知代とかだったらどっちかが怪我しちゃうからダメで、そこでプロレスラーに「相手に怪我をさせずにケンカを成立させるプロフェッショナルとしての技量」が求められるのであって、かつ世間的に顔が売れているのであればアジャ・コングさんとかでもいんじゃねぇか?と思うところで意表ついて高山の登場だと。
こうして予想の範疇を越えられてしまうと、私の場合はムキになって勝手に理由探しを始めたりする性向を持っているワケなのですが、今回のこれについてムキにならないのは浅香光代に興味がないからなんでしょうね。オバサン・・・婆さんがリングで動いてても綺麗じゃないもの・・・とほほ。
いや、これが高山vsAKB48の変則タッグマッチとかなら大いに興味が湧くと思うんですけども。
世間的にはこれが現実であり、マスコミにしてみても関心を引く話題の方が扱いやすいのは間違いないことでしょうね。とは言え、限られたスペースの中で何を訴えるのか何を伝えるのかバトル面の記者に私は期待しちゃっているんですよ。こんなダサい時代だから熱さをぶち込んでくれってね。
いずれにせよ、そうして物珍しさや話題だけが先行して内容や本質、本物が置き去りにされてしまうということが現実的にたくさん起こって来ているので、そういうムードはムードとして「しょうがねぇな」とは思いつつも「なんぼなんでもこりゃイカンだろ」と思わず口走ってしまう私は、ちゃんとオッサンになっているということなのだろう。







